もしも武田信玄が三方ヶ原の戦いの後に病に倒れず織田信長へと迫ったら?【後編】
戦国武将の「if」 もしも、あの戦の勝敗が異なっていたら?
史実では三方ヶ原の戦いの後に病に倒れ、この世を去ってしまった武田信玄が、もしも生きていたらその後はどうなっていたのだろうか? 病から回復し、信長が拠点とする小牧の地へ進軍する武田軍の様子を描いた前編の続きをシミュレーションする。
■真田昌幸の説得が功を奏し明智光秀と荒木村重を寝返らせた!

山梨の県庁所在地・甲府の駅前に立つ信玄像。現在も県民の英雄として尊敬の念を集める。
武田信玄は決戦を前に織田軍を内部分裂させる謀略を仕掛ける。仕掛ける相手は織田家にとって外様の荒木村重(あらきむらしげ)と明智光秀であった。
村重が毛利勢と通じ石山本願寺へ兵糧を密輸したという噂を流す。信長は疑わしきを罰す。信長を恐れる村重に天下の大立者である信玄が手を差し伸べる。
光秀は仏教の保護者であり、信長の比叡山焼き討ちに不満を抱いていた。足利義昭(あしかがよしあき)の征夷大将軍就任に奔走し、信長へ橋渡ししたのも光秀である。だが、信長は義昭を利用しただけで、足利幕府再興という光秀の悲願を潰した。
信玄は信長の比叡山焼き討ちにより甲斐へ逃れた、正親町(おおぎまち)天皇の弟宮、天台座主の覚恕(かくじょ)法親王を保護している。皇族座主の計らいで信玄は権僧正(ごんのそうじょう)という権威を与えられ、仏法の再興を懇願されていた。
「信長を倒し、仏法を再興しよう」
と光秀に持ち掛ける。信長は光秀の才を認めるが、利口そうに振る舞う性格を嫌い、辛く当たることがあった。
村重と光秀は姻戚である。1人では謀叛に踏み切れないが、2人となれば心強い。信玄が我が眼と称す若き謀将、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の奔走により村重と光秀は説得される。
信玄が信長の故郷・尾張(おわり)に入り、守山(もりやま)城を奪取した報はすぐ信長に届いた。信長はまず濃尾の第一防衛線、小牧へ向かう。小牧山城は信長が美濃攻略の前線拠点とした要衝であり、迎撃陣を張るには申し分ない。
だが、信玄は浜松城の時と同じく、小牧を素通りし、西北西に進路を取り、中野へ向かった。この先、大河の木曽川を渡るに際し、通常は河田から米野へ進むが、信玄はあえて中野を選んだ。
小牧城を中心とする一帯の防衛線は強健であり、破るにはかなりの時と労力を費やす。それを避け、さらに岐阜城周辺の第2防衛線も迂回した。
だが、中野は川幅が広い。大軍を渡すには向かなかった。
信玄は自ら考案し、甲斐の釜無(かまなし)川や笛吹(ふえふき)川のみならず天竜川や大井川にも伝えられた大聖牛(だいせいぎゅう)を用いる。三角に組んだ丸太の基部を重しによって固定した水制で、流れを弱めることができた。
これにより武田軍は木曽川を渡る。この動きを知らぬままいる信長ではなかった。西岸に軍勢を並べ、待ち構える。
大聖牛で水量を抑えた木曽川を武田軍が渡る。対して織田軍は鉄砲隊と弓隊が一斉に射撃して迎え撃つ。
武田軍は銃火を恐れず次々と渡河して西岸に上陸した。そこへ織田軍が草叢に隠して置いた伏兵が湧き起こり、大乱戦となる。織田軍は柴田勝家(しばたかついえ)や丹羽長秀(にわながひで)ら歴戦の勇将が奮戦し、天下最強の武田軍と互角に渡り合った。が、山県昌景や馬場信春の猛攻に支え切れず、態勢を立て直すべく後退する。時に岐阜城へは別働隊の秋山信友が押し寄せており、織田軍は武田軍の美濃通過を阻止すべく関ヶ原の西に連なる丘陵に布陣して待ち伏せる。関ヶ原は四方を山に囲まれた窪地であり、織田軍は東方から来る軍勢を完璧に包み込める位置取りだった。

武田二十四将図信玄を支えた家臣23名が描かれている。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)
武田方山県隊が織田方では最強の柴田隊に襲いかかる。両軍最強同士の戦いは熾烈を極め、互いに引かない。
織田方丹羽隊には武田方土屋隊が対しこれも互角だった。馬場隊と小山田隊は信長の本陣へ討ち込みを図るが、精鋭の前田隊、佐々隊、池田隊に阻まれ、抜けなかった。
一進一退が続く、戦いも真っ最中、信じられない報が光秀にもたらされた。『上様(信長)は日向守(光秀)様が法親王と将軍家に通じていると疑われています』
武田方の流した虚報である。が、信長は疑い深い。光秀は神経が細い。信長の怒りを恐れ、慄き、怯え、寝返るしかないと思い込んだ。斜面を駆け下って織田方の佐久間隊に突撃する。
佐久間隊は意表を衝かれて混乱した。これを滝川隊が支えて持ち直したが、荒木隊も叛旗を翻し、織田方2隊は潰滅する。これにより信玄の本陣も前進し、総攻撃を織田軍に仕掛ける。
信長は家臣を酷使するが、決して裏切らないと信じていた。見事な胆力であり家臣を信じていればこそ数々の新機軸を打ち出し、成長し続けて来られた。
この度も信長は首を傾げたが、現実は現実として直視する。
「是非に及ばず」
織田軍は潰乱し、収拾が付かない。最早、大勢は決した。信長は戦場を脱し、再起を図るため尾張へ逃れる。岐阜は秋山隊に落とされていた。
■浅井、朝倉、毛利、伊達ら有力者と体制強化を図る!

近江の有力武将であった浅井長政と信長の妹で、長政に嫁いだお市の夫妻像。
京二条におびただしい風林火山の旗が翻る。信玄はこれより天下に号令する。まず「京を安堵せよ!」と命じ、京の治安を維持する。信長は乱れた京の治安を回復したことで人々に敬服された。
「信長にできたことができなければ、我は京の人々に侮られ、政の権を取ることなど適わぬ」
何より政権の中心たる京の秩序を保つことが肝要だった。
そして、京が治まったところで足利将軍義昭を立てて幕府を起こすか。いや、純粋に足利将軍家を立てて天下を統治しようとする上杉謙信とは根本的に違う。
「将軍家には幕府を開かせない。幕府を起こすは我にあり!」
信玄は信長と同じく、自らが天下に君臨することを望んでいた。信長も義昭を征夷大将軍にこそしたが、近衛大将就任を阻み、幕府を開かせていない。義昭が政権を取るなら幕府以外の形態となる。
しかし、義昭を差し置いて信玄が将軍になるというのも世は許さない。
信玄は法親王を保護し、権威を与えられた。法親王は仏法の再興を信玄に懇願している。信玄は天台座主の覚恕法親王を通じて天皇に働きかけ、天下を統べるに足る官位を得ればよい。この時、信玄は正四位下信濃守、義昭は従三位権大納言、ちなみに信長は正四位下弾正大弼だった。幕府とは本来、武官職の最高位、近衛大将の唐名である。征夷大 さらには、信玄が源氏長者となることだった。源氏の中で最も官位の高い人物が源氏の長者となり、全ての源氏の上に立つ。武田家は歴とした源氏の名門であるから、資格は十分である。信玄は近衛大将(従三位大納言相当)となり、源氏長者となることで天下に権威を誇示し、義昭の成し得なかった開幕を果たす。
武田幕府は信玄を長とするが、同盟者の朝倉義景と浅井長政を重きに置き、執権または管領に据える。西国の毛利や奥州の伊達など有力者も入閣させて体制の強化を図る。義昭は毛利に任せ、封じ込め、上杉謙信は朝倉と伊達に牽制させる。
義昭はまた騒ぐだろう。だが、どうにもできない。もし、義昭が信玄の政権に不満を抱き、諸国に御内書を出して打倒を呼びかけようとするなら、
「信長も嫌い、信玄も好かぬとは身勝手過ぎる」
と世に見限られてしまう。指を咥えて見ているしかなかった。
■信長は謙信と手を組み秘かに牙を研いでいる

上杉謙信の居城・春日山城跡に立つ謙信像。
「仏法、王法、神道、諸侍の作法を定め、政を正しく執り行わん!」
開幕した信玄は、天下を治めるため、法の整備に取りかかる。領内に定める甲州法度之次第(信玄家法)は鎌倉幕府の御成敗(貞永)式目を範としていた。これを改新して天下に発布する。
権僧正であり、法親王を後ろ盾としている上は、寺社政策にも力を注がなければならない。比叡山延暦寺を復興し、信長包囲網で手を結んだ石山本願寺にも便宜を図り、宗派を特定して偏ることなく仏法を保護した。
経済の活性には全国の検地を始め、楽市楽座、関所の廃止など次々と実施し、新田の開発も精力的に推進する。また、日本初の金貨を鋳造したのは信玄だった。甲斐は黒川や湯之奥に豊富な埋蔵量を誇る金山がある。金貨を流通させて豊富な資金を産み出す。
街道の整備も欠かせない。信玄は甲斐と信濃を棒道なる軍用路で繋ぎ、迅速な軍勢の移動を実現させた。
「東山道を棒道にせよ!」
東山道(中山道)の隘路を開削して広げ、甲斐と京の行き来を円滑にし、宿場を開いて駅を置く。信玄は異能の三ツ者や歩き巫女を使って諸国の情報を抜かりなく収集し、足長坊主とも呼ばれた。駅から駅へリレー式伝令の情報伝達体系が加われば、甲斐と京が90里(360キロ)あまり離れていようと、1日もかからず情報は伝わる。
かくして、信玄の天下は固まった。
だが、関ヶ原で敗れた信長は尾張に帰り、秘かに牙を研いでいる。足利幕府再興に奔走した明智光秀の夢は潰れ、信玄に加担したことを後悔している。まだ予断は許さない。
「若さが羨ましい」
信長は40歳、光秀は45歳、53歳で労咳という不治の持病のある信玄の余命は短かった。
上杉謙信は足利将軍家を差し置いて天下人となった信玄を許さない。織田信長は再起を図り、謙信と手を結ぶ。信玄が存命中はその大いなる影響力により諸大名も従い、信長と謙信は劣勢に立たされる。しかし、信玄は当時、不治の持病を抱え、信長や謙信より寿命は短い。信玄が死ねば、織田・上杉連合軍は一気に挽回を図り、支柱を失った武田軍を打倒する。次代が劣れば、大物の天下は、大物の死によって瓦解する。歴史がそれを物語っている。勝頼では保てない。
監修・文/竹中 亮