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戦国随一の采配をとった武田信玄の武田軍マネジメント術

今月の歴史人 Part.3


戦国時代、天下を取る可能性があったと評される甲斐の武田信玄。中国の軍師・孫子の兵法を学び、実践し、群雄割拠の戦国時代を勝ち抜いた名将の軍のマネジメントの方法に迫る。


 

武田信玄の軍制──寄親・寄子制と軍鑑による統制・感状
褒美を感状から金の支給に変え、戦闘の意欲を鼓舞した
寄親寄子制を展開し感状だけでなく褒美も支給

 

武田信玄と上杉謙信の激突を再現した像。川中島古戦場に立つ。

 

 武田信玄の軍勢は、他の戦国大名と同じく、譜代、本国内国衆、他国衆によって構成された。さらに、村町より諸役免許特権付与を通じて動員された、武田氏の直参(軍役衆、足軽、牢人)がこれに加わった。

 

 譜代は、甲斐の武士たちで、なかでも侍大将は数百人を指揮する軍事指揮官で、山県・原・内藤などの大身の譜代が任命された。譜代は、自身の所領より動員した兵卒と、家来を独自に引率していた(これらは武田氏から「又被官」と呼ばれた)。また譜代の中から、旗本足軽大将に任命される者も多かったという。

 

 国衆は、大小の規模の差はあるが、知行貫高千貫文以上の、城持の大身の武家で、「家中」(家風、洞中とも)の家来や、領内の兵卒を引率した。

 

 信玄は、他国から来た牢人たちの中から、すぐれた人材を雇用し、戦功者は足軽大将に任命して、その他は足軽として、組下に編成した。また村町から動員された軍役衆は、軍勢の中で占める割合が多かったと推定されている。信玄は、彼らを組み合わせて、軍勢の編成が行われた。

 

 まずその核となったのが、武田御一門衆と譜代家老衆である。彼らは寄親(よりおや)(一手役、物主)に任命され、国衆と軍役衆(寄子・同心衆とも)らを預かった。

 

 さらに、武田御一門衆と譜代家老衆の一部は、先方衆(外様国衆、信濃・西上野・駿河などの占領地の国衆)を相備衆(組衆)として、信玄より預かったとされる。

 

風林火山の旗武田軍団の迅速果断さの象徴である「風林火山」の旗印。武田家当主のみ使用が許されたため、信玄は遺言の中で陣代(代理人)の立場である、勝頼にはこの旗を用いることを禁じた。

 

甲陽軍鑑に記された先方衆らの組織とは

 

『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)。武田氏の戦略・戦術を記した軍学書。

 

 同書によると、武田御一門衆のうち、武田逍遙軒信綱(しょうようけんのぶつな)(信玄の弟)と一条信龍(信玄の異母弟)のみが、先方衆を相備にしていたという。

 

 譜代家老衆では、山県昌景(やまがたまさかげ)(駿河江尻城代、遠江・三河方面軍、駿河・遠江・三河・信濃の先方衆のうちより11氏)、内藤昌秀(西上野箕輪城代、関東方面軍、上野の先方衆より7氏)、馬場信春(信濃牧之島城将、飛騨・越中方面軍、飛騨・越中・駿河の先方衆より6氏)、春日虎綱(信濃海津城代、信越方面軍、信濃川中島衆17氏)、土屋昌続(信玄側近、信濃先方衆より7氏)が、先方衆を相備衆として信玄より預かっていたという。先方衆の中の依田(芦田)信守・信蕃父子は、同じ信濃先方衆丸子(丸子城主)と武石氏(武石城主)を預かっていたといい、信玄より信頼されていたようだ。

 

 信濃真田、依田(芦田)氏と西上野小幡氏は所領規模が大きく、軍勢も多く、自分たちだけで一軍を編成できた。

 

監修・文/平山優

 

(『歴史人』12月号「武田三代 栄華と滅亡の真相」より)

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