なぜ平清盛は目覚ましい昇進を重ねることができたのか?【後編】
平家の後継者として成長する清盛の若き日々

宮島(広島県廿日市市)の桟橋広場に設置されている、平清盛像。袈裟を着用した風格のある姿で作られている。
平忠盛の長男として生まれた清盛は、元服した後に順調な官位の昇進をはじめる。この当時、長男としての誕生は必らずしもその家の後継者となることの保障にはならなかった。だが忠盛の正室・宗子(後の池禅尼)を母とする家盛(いえもり)が若くに没したことが清盛に幸いし、清盛にとって一族内での家督継承のライバルはいなかったのである。
清盛は、天承(てんしょう)元年(1131)に従五位上となり、保延(ほうえん)元(1135)には父・忠盛の海賊討伐の賞を譲られて、従四位下に叙されている。この当時、家の再生産のために恩賞を子に譲るということがしばしばなされており、この叙位は、清盛が忠盛の後継者であることを明らかにする行為であった。その後、清盛は久安(きゅうあん)2年(1146)に正四位下にまで昇っている。
清盛が忠盛より受け継いだものには、武家棟梁としての軍事的職務だけでなく、経済面での活動や西国の水運を利用した交易との深い関わりがあった。
清盛の父・忠盛は、鳥羽上皇の荘園である肥前国(ひぜんのくに)神崎荘(かんざきのしょう)の預所(あずかりどころ/現地管理者)として宋との貿易を積極的に推進し、それまで対外貿易を一手に管理していた大宰府の役人との間でいさかいを起こしている。院の権威を背景に積極的な対外貿易を推進する平氏の姿勢のあらわれである。
保延3年(1137)に清盛は、父忠盛の熊野造営の賞の譲りで肥後守となり、仁平(にんぺい)元年(1151)には、忠盛の知行する安芸国(あきのくに)の受領となる。西国の受領に任じられた清盛の官歴に、西国を一族の基盤としようとする平氏の方向性を読みとることができる。
仁平3年(1153)に忠盛が没し、清盛は晴れて武家棟梁平氏の家長となった。
永暦(えいりゃく)元年(1160)に清盛は、鎮西の海賊である日向通良(ひゅうがみちよし)の追討使に任じられ、見事にその役目を果たし、忠盛の後継者としての面目を全うする。ただし、海賊の追討を直接行なったのは清盛の郎等である平家貞(いえさだ)であり、清盛が西国に出向いたわけではない。西国での海賊退治における清盛自身の活躍ぶりを示す史料は、残念ながら伝わっていない。
また清盛は、保元3年(1158)に大宰大弐(だざいのだいに/九州を統括する大宰府の受領の地位に相当)に任じられる。大宰府の実質的な指揮権限を手にした清盛は、大宰府の役人を平氏家人とする手法によって、父以上に積極的な対外交易の推進に乗り出していくのである。
ところで、忠盛が健在だった時期の清盛の動きとして注目されるものに、久安3年(1147)に起きた、いわゆる祇園社闘乱(ぎおんしゃとうらん)事件というものがある。
事件の発端は、6月の祇園社御霊会における清盛の従者と祇園社の神人とのいさかいであった。
その中で従者の放った矢が祇園社の建物にあたったことから事態は紛糾し、祇園社を末社とする延暦寺(えんりゃくじ)が清盛の処罰を鳥羽(とば)上皇に訴え、強訴(ごうそ)の動きを見せた。
忠盛自身は、事件の早期収束をはかるべく、当事者の身柄の鳥羽上皇への引き渡しと清盛の処罰を容認する姿勢を見せ、最終的に穏便な解決がなされたものの、一時は京中で有力武士と延暦寺衆徒の全面衝突が勃発する寸前にまで事態は緊迫したのである。
明確な史料はないが、清盛がこの事件から、延暦寺のような有力寺院との関係を良好に保つことの重要さと難しさを学んだ可能性がある。その後の清盛が延暦寺に対して、意外に思えるほど宥和(ゆうわ)的なスタンスをとり続けた背景は、この若き日の経験に求められるのではないか。
清盛は、祖父・父と同様に四位への昇進を果たす。そして、平治の乱で源義朝(よしとも)を倒し、後白河上皇および二条天皇の窮地を救ったことの賞として三位に昇り、清盛の父祖だけでなく、それまでに武士の誰もがなしとげられなかった公卿身分への到達を果たすことになるのである。
監修・文/上杉和彦