×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

平氏とはどのような一族だったのか?─源平の歴史を探る─

いま「学び直し」たい歴史


2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送開始が迫り、「源平の歴史」により一層注目が集まっている。源氏のライバルとして飛躍した平氏は、いったいどのような一族だったのか。平安末期の源氏と覇権を争った名門・平氏は、源氏とともに武士の地位を高めていった。今回は平氏がどのように生まれ、いかにその地位を築いたのか、その歴史とともにルーツを探る。


 

一族で権益を共有しさらなる繁栄を目指す、貴族や朝廷に愛された武士たち
凋落する源氏と入れ替わり勢いを得た平氏は正盛・忠盛の2代で飛躍する

平将門平氏の武将としてはじめて日本の歴史に名を刻んだ。(「芳年武者无類 相模次郎平将門」国会図書館蔵)

 平氏は、桓武天皇の第五皇子である葛原(くずはら)親王の子孫にあたる一族である。その中でも、武士として栄えた平氏は、葛原親王の子である高見(たかみ)王の流れにあたる。一方、葛原親王の子で平姓を賜った高棟(たかむね)の流れにあたる平氏は、文官官僚として活躍した人物を出している。ちなみに、平清盛(たいらのきよもり)の正室である時子(ときこ)は、高棟流平氏にあたる。

 

 高見王の子で平姓を名のった高望(たかもち)は、9世紀末に上総介(かずさのすけ)として下向し、そのまま東国に土着して武士身分となる。後に関東の各地で勢力を張る平姓の武士は、すべて高望の子孫にあたり、その流れは坂東平氏(ばんどうへいし)と称される。

 

 高望の子である国香(くにか)は、常陸大掾(ひたちだいじょう)・鎮守府(ちんじゅふ)将軍を歴任した武士で、常陸国に土着し真壁(まかべ)郡石田を本拠地とした。

 

 この国香の代に、関東に土着した平氏流武士の間で勢力争いが起き、その戦いの中で、承平5年(935)に国香は甥の平将門(たいらのまさかど)に殺害されてしまう。やがて、一族内の確執が京の政治勢力を巻きこむ事態に発展し、その過程で将門は、「朝敵」として朝廷より追討を受けることとなった。やむなく将門は「新皇」を名のって関東で独立の動きを見せ、朝廷に対して公然と反旗を翻す。

 

 このいわゆる平将門の乱で、源経基(みなもとのつねもと)・藤原秀郷(ひでさと)等とともに将門追討の功を立てたのが国香の子・平貞盛(さだもり)であり、その結果、関東における桓武平氏流武士団の勢力はひきつづき維持されることとなった。

平貞盛平氏の武士として勢力を盛り立て、その後の平氏隆盛の素地を築いた。平清盛の祖先にあたる。(「本朝百将伝」/国立国会図書館蔵)

 しかし、長元元年(1028)に房総半島で桓武平氏の忠常(ただつね)が起こした反乱の鎮圧に同じ平氏の直方(なおかた)が失敗し、かわって追討使となった源頼信(よりのぶ)が戦うことなく忠常を屈伏させるという武功を挙げたことで、関東における平氏武士と源氏武士の勢力関係に大きな変化が生じはじめる。

 

 その変化が最も顕著に現れたのが、直方が自らの本拠地である鎌倉の館を頼信に譲るという出来事である。「源氏の都」としての鎌倉の歴史は、実はこの時点からはじまるのであった。また直方は、娘を頼信の子・頼義(よりよし)の妻とする。ちなみに、この2人の間に生まれたのが源氏に最初を栄光をもたらした源義家(よしいえ)である。

 

 このように関東において源氏が優勢となっていく中で、桓武平氏流武士の中に関東から拠点を西に移すものがあらわれた。貞盛の子である維衡(これひら)が、伊勢国を本拠地とし、朝廷の政治勢力とより密接な関係を結ぶようになったのである。これ以降の維衡の流れを伊勢平氏とよぶ。

 

 維衡の曽孫(そうそん)にあたる正盛は、検非違使や数多くの国の受領を歴任し、伊賀国にあった所領を白河上皇に寄進したことが契機となって上皇の信任を得て、院北面の武士となり、謀反人追討・海賊討伐・寺社の強訴(ごうそ)対策にしばしば手柄を立て、伊勢平氏隆盛の礎を築きあげた。

 

 正盛(まさもり)の子である忠盛(ただもり)も、父と同様に武士としての活躍ぶりを見せ、白河院政さらには鳥羽(とば)院政を支えた。

平忠盛朝廷との関係を強めるとともに、交易などで一族の財力を高め、武士全体の地位すらも向上させた逸材。忠盛以後に訪れる「平氏の時代」の礎を築き、子である清盛へとバトンをつないだ。(「前賢故実」/国立国会図書館蔵)

 正盛および忠盛が、京に近い場所に拠点として定めたのが、平氏にとって深いゆかりを持つ地として知られた六波羅(ろくはら)である。

 

 鴨川の東岸地域に位置する六波羅は、もともと京に近い葬送の地であり、古くより寺院が存在する場所であった。正盛がこの地に阿弥陀堂を建立したことで、六波羅と平氏の結びつきがはじまり、忠盛の時代に方一町の規模を持つ町として成長した後、清盛(きよもり)へと継承され、「平氏の都」と呼ぶべき六波羅の隆盛が見られるようになるのである。

 

 ところで、正盛と忠盛が受領となった国の地域分布を見ると、明らかに中国・四国地域に集中する傾向を読みとることができる。これは、瀬戸内海水運を掌握することで豊かな財力を確保しようとする平氏の志向のあらわれと理解することができる。

 

 そもそも伊勢平氏の本拠地である伊勢も交易がさかんな地であり、伊勢平氏はその大きな富によって、院御所造営や寺社造営などの行為によっても白河上皇や鳥羽上皇に貢献することができた。

 

 このように正盛と忠盛が見せた軍事面のみならず経済面での院権力への奉仕のあり方は、そのまま清盛の活動に継承され、さらなる発展の礎となっていく。

 

監修・文/上杉和彦

『歴史人』電子版 歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.5「源平合戦」より)

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

歴史人2023年7月号

縄文と弥生

最新研究でここまでわかった! 解き明かされていく古代の歴史