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『鎌倉殿の13人』に関わった偉人たちが遺した名言

今月の歴史人 Part3


源平合戦やその後の鎌倉幕府内の権力争いを生き抜いた武士たちの志は、いかほどだったのか。その生き様と信念がうかがえる言葉たちが現在に残っている。今回は源頼朝がつくった鎌倉幕府の将軍家や、『鎌倉殿の13人』に関連した人々が遺した名言を紹介する。


 

波乱に満ちた鎌倉時代に残された言葉たち

 

曾我兄弟の母
「腹の内なる子だにも、母の言う事を聞き悟りて親の仇をば討つぞよ」

 

 我が子である河津祐通(かわづすけみち)のなきがらに取り付き悶え泣く母は、5歳・3歳の息子を膝元に引き寄せ「兄弟よ、父親の仇を討て」と諭した。 15になったなら必ずや工藤祐経を討てと。錯乱状態で放ったこの言葉は呪縛となって兄弟を復讐へと駆り立てた。母は仇討ちを命じたことを後悔し、止めさせようとするが叶わず兄弟をも失ってしまう。悲しみが悲しみを生む。

 

 

畠山重忠
「謀反を企てんと欲するのよし。風聞せば、還って眉目と謂うべし」

 

畠山重忠 国立国会図書館蔵

 

 武士中の武士が重忠である。謀反の疑いをかけられた重忠は、梶原景時(かじはらかげとき)の詰問を受け、「武威を以て財宝を奪ったと言われるのは心外だが、謀反を疑われるのは武士として誇らしい」と豪語する。景時の報告を受けた頼朝は、重忠を招き入れて談笑するが、謀反の件については一切話題にしなかった。源頼朝もまた棟梁中の棟梁なのだ。

 

 

源実朝
「出でいなば主なき宿と成ぬとも、軒端の梅よ春をわするな」

 

源実朝画・菱川師宣/国立国会図書館蔵

 

「私が居なくなっても、庭の梅よ、 春を忘れず咲いてくれ……」、こう詠んで鶴岡八幡宮へ出立し公暁(こうぎょう)に討たれた。まさに運命を悟っていたかのごときエピソード。『吾妻鏡』では、兄・源頼家はいわゆる「ナレ死」扱いだが、いかにも手厚い描きようである。むざむざと主人を討たせてしまった、武士たちの後悔と悲しみの故ではなかろうか。

 

 

和田義盛
「三浦の犬は友を食らうなり」

 

 千葉胤綱(ちばたねつな)は、ある正月の幕府祝宴で三浦義村(みうらよしむら)を「友を食った三浦の犬」と罵った。満座の賑わいは、一瞬で凍りついたであろう。義村は一族の和田義盛と北条義時打倒の密約を交わしたが、北条方へ寝返る。これが大きく影響し義盛一族は滅亡した。酔った勢いか、胤綱は御家人列座の場で公言するが、それは裏切りに憤りつつ討死した義盛の代弁でもあろう。

 

北条時政
「関西三十八ヶ国地頭職を以て、舎弟千幡君に譲り奉るべし」

 

北条時政東京都立中央図書館蔵

 

 鎌倉2代将軍・源頼家が危篤に陥ると、すかさず時政は「庇護下にあった千幡(実朝)に諸国地頭職の半分を譲らせよ」と告げた。頼家の後見比企能員は病 床の頼家の枕元に参じ、将軍権力を2分する企みは「乱国の基」であり、北条一族を討つべしと訴える。時政には織り込み済みの展開で、仏事があるからと比企を自邸に呼んで殺害すると、頼家の反撃を制して伊豆へ幽閉した。鮮やかなクーデターであるが、政子と義時は時政の後妻、継母の牧の方が悪事を企んでいるとし、千幡の身柄を押さえられ、時政はあわてて侘びを入れている。『吾妻鏡』 お得意の腑に落ちない展開。真の黒幕は誰か。そもそも将軍の財産分与に時政が口出するのがおかしい。

 

 

後鳥羽上皇
「いかに将来に、この日本国、二つ分ける事をばしおかんぞ」

 

後鳥羽上皇京都国立博物館蔵/出典:ColBase

 

 実朝暗殺は、朝廷にとっても大事件であった。実朝と上皇は良好な関係で、これをベースに上皇の皇子を鎌倉へ迎え将軍とし、実朝が後見するという公武統一が進められた。ところが実朝の暗殺、では話が違うという「日本を2つにさせない」との一言。皇子を将軍にしても実朝の後見がなければ、ただの飾り。無用な権威を与えることになるからだった。

 

 

北条時頼
「事足りなん」

 

北条時頼国立国会図書館蔵

 

 兼好法師の『徒然草』には時頼の話題がいくつかある。母の松下禅尼が倹約のために障子の切り貼りをした逸話や、小皿の味噌をみつけて肴は「これで充分」と、大仏宣時と酒を楽しむ逸話である。「昔はこのように質素だった」といにしえを懐かしむという落ちだが、「古き良き時代」という認識は、いつの世も変わらぬようだ。

 

北条泰時
「眼前の兄弟の危機を見過ごすようなら、重職を得ても無意味である」

 

北条泰時国立国会図書館蔵

 

 幕府での評定中、弟朝時の家に賊が押し入ったと聞くと、泰時は座を蹴って駆けつける。朝時は不在で無事だったが、側近は執権という重職にかかわらず軽率だと諫めた。反論して「兄弟の危機は見過ごせない」と一言。いかにも弟思いのいい兄貴風だがそう単純ではない。朝時は北条一門中のライバルである。泰時に何らかの思惑が無かったと言えよう。

 

 

北条義時
「十九万騎をのぼらせ候、西国の武士と合戦させて、御簾の隙よりご覧候べし」

 

北条義時東京都立中央図書館蔵

 

 義時が真に幕府を掌握するのは、実朝暗殺事件以降である。青年期には江間を称するなど北条氏の嫡流でもなかった。兄宗時、弟政範の死、父の失脚などの巡り合わせが彼を押し上げていった。最大のピンチは実朝暗殺とともにやってくる。後鳥羽上皇は、新将軍下向の拒否やら、地頭職の返還やらと、ここぞとばかりに幕府へ揺さぶりをかける。この圧力に抗しつつ、姉・政子、長老大江広元の力添えを得て摂家将軍を擁する新体制を築く。やがて上皇は挙兵に踏み切るが、義時追討命令を携えた上皇の使者押松は捕らえられ、 逆に「大軍を上洛させますので、合戦をどうぞご覧下さい」との伝言役を命 じられる始末。ここに義時の自信の程と、勝敗の行方が表れていよう。

 

監修・文/安藤優一郎

『歴史人』3月号「日本史の名言400」より)

 

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