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知らない人はいない!最も有名な忍者の棟梁【服部半蔵正成】

乱世を席巻した忍びの者たち 第1回 


戦国時代、敵国に侵入し情報取集、諜報活動、さらに要人の暗殺にもたずさわった忍者たち。知られざる忍者の組織形態、活動についてその全貌を明らかにしていく。第1回は徳川家康(とくがわいえやす)の天下取りにも貢献した服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)の活躍、人物像をフォーカスする。


 

服部半蔵とは一代限りで終わる個人の名前ではなく、服部家の当主が襲名していく名称であった。江戸時代には幕諜報機関として幕政に関わった。

 戦国時代、情報収集や攻撃・暗殺などを目的に敵方に接近したり、あるいは潜入して機敏に任務を果たす。戦場で戦う武将や兵卒とは異なり、そうした一切を陰で成功させた存在を「忍び」「忍者」と呼んだ。その呼称も家ごとに「透波(武田軍/すっぱ)」「軒猿(上杉軍/のきざる)」「乱波(北条軍/らっぱ)」「黒臑巾組(伊達軍/くろはばきぐみ)」「鉢屋衆(毛利軍/はちやしゅう)」などと独特の呼び方をした。この他に「伊賀忍者(三重県)」「甲賀忍者(滋賀県)」など地域による一般的な呼び名もある。伊賀忍者には、支配者階級として「百地」「藤林」「服部」という「上忍」3家があり、服部家が伊賀を代表する名門とされる。

 

        ◇

 

 服部家は、忍びの家の名門である。清康から家康まで松平(徳川)3代に仕えた。服部半蔵正成の父・半三保長(やすなが/初代)は伊賀出身であり、12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の身辺警護をした後、三河に来て松平(徳川)の家臣になる。この半三保長の5男が半蔵正成である。半蔵正成は家康に重用され、忍びばかりでなく多方面に渡り活躍した。半蔵正成の初陣は16歳。家康の三河上郷城(宇土城)攻防戦に、数十人の忍者集団を率いて夜襲に参戦し城内に潜入して大きな武功を上げたという。

 

 しかしその後の遠州掛川城攻め・姉川合戦・高天神城の戦い・三方ヶ原合戦などには、忍びというよりも武将として活躍した記録が残る。「徳川殿はよい人持ちよ、服部半蔵鬼半蔵、渡辺半蔵槍半蔵」と俗謡になるほどの武将であった。一方で、三方ヶ原合戦前後には、150人の忍びを預けられており、家康は半蔵正成に多くの期待を掛けていたことが分かる。武将の一方で忍びの棟梁であった証拠には、徳川の家臣に成り済ましていた武田の忍び・竹庵を討ち取った記録もある。

 

 天正7年(1579)9月、家康の嫡男・岡崎三郎信康(のぶやす)が反逆の罪ありとして、織田信長から死罪を強要された際に信康の介錯を命じられた半蔵は「長年仕えてきた信康様を討てない」として介錯を拒んだ。この愛惜のある半蔵の態度が家康には生涯にわたる信任に繋がった。

 

 天正10年(1582)6月、本能寺の変が起きた。堺にいた家康主従は「伊賀越え」によって命からがら三河に戻ることが出来たが、この時に半蔵は伊賀忍者・甲賀忍者を召集して護衛とし一揆の群がる敵中突破を果たした。この後に、家康は伊賀200・甲賀200の忍びを徳川家の旗本(同心)として採用、半蔵をその棟梁とした。天正18年(1590)8月、家康が江戸に入ると、8千石を賜った半蔵は江戸城の麹町口に屋敷を拝領した。その屋敷に近い城門の1つがその名前を取って「半蔵門」と呼ばれるようになる。

 

 慶長元年(1596)、半蔵正成は何と配下の暗殺によって命を落とす。服部家を受け継いだのは長男の政就(半蔵を名乗る/まさなり)であった。政就は父・正成ほどの実力は無く、伊賀同心を軽く扱った。こうしたことが重なり、配下にストライキを起こされて失脚する。しかも元和元年(1615)の大坂夏の陣に参戦したものの、天王寺口の戦いで討ち死にを遂げる。乱戦の最中と在り、半蔵政就の遺骸も不明という最期であった。さらに弟・正重も取り潰しの憂き目に遭い、服部本家(半蔵正成の系統)は、ここで絶えることになる。 以後、服部半蔵の名前は伝承の中で神格化され、最も有名な忍びの者になっていった。 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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