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【越後騒動】家督相続が藩を二分する抗争に!将軍・綱吉の介入で御家は取り潰し(高田藩/新潟県)

江戸時代の「御家騒動」事件簿 【第2回】越後騒動(高田藩/新潟県)


疲弊した藩財政を立て直すため、越後(えちご)・高田(たかだ)藩の筆頭家老・小栗美作(おぐりみまさか)は強引な改革をおしすすめていた。その過程で突然もちあがった藩主の家督相続は、藩を二分する熾烈(しれつ)な抗争への発火点となる。


御家騒動により改易処分(取り潰し)を受けた藩は、江戸時代初期に最上騒動で混乱した山形藩などがある。写真は御家騒動の舞台となった高田城。

 

 越後・高田藩は松平光長(まつだいらみつなが)が治めていたが、他藩同様に藩財政は窮乏(きゅうぼう)していた。筆頭家老・小栗美作は、財政再建を核とした藩政改革に着手。かなり強引な手法も取ったが、上級藩士でなく下級藩士であっても才能がある者を登用するなどして改革の実を上げ、また銀山開発・煙草栽培・治水・灌漑(かんがい)・深淵(しんえん)開発事業なども行った。

 

 こうした藩政改革の過程で、藩主・光長の嫡子・綱賢(つなかた)が42歳で病死したが、綱賢には子どもがなかった。そのために、世継ぎ候補として数名の名前が上がった。重臣たちの評議の結果、藩主・光長の異母弟・永見市政(死亡していた)の遺児・万徳丸を「15歳という若さが前途ある」として、推挙した。万徳丸は、光長の養子になり、元服した際には4代将軍・家綱の一字を受けて「綱国(つなくに)」と名乗った。この万徳丸(綱国)を強く推したのが小栗美作であった。

 

 しかし、一連の藩政改革が絡んだ家督相続問題は、重臣たちから下士まで藩内を二分する抗争に発展していた。藩政の実権を握る小栗に反発する藩主・光長のもう1人の異母弟・永見大蔵や次席家老・荻田主馬らが「お為方(せんほう)」と称し、実権を握る小栗らを「逆意方」と名付けて小栗排除の計画を立てた。永見らの「お為方」には家臣890人が、小栗らの「逆意方」には130人余りが加担した。

 

 延宝7年(1679)正月には「お為方」500人余りが武装して小栗邸に押し掛けるという騒動まで起きた。これを知った幕府が調停に当たり、小栗を隠居させ、永見らは藩政に関与しないという決定をした。だが、藩内はこれに従わず、永見・荻田ら「お為方」は藩士から藩主・光長への忠誠を誓う起請文を集めて団結を固めた。小栗派は反発した。幕府は再び評定所で審理し、徒党を組み起請文を集めた永見ら「お為方」の主要人物を各藩お預け処分とした。

 

 これで一件落着のはずだったが、延宝8年(1680)、将軍・家綱(いえつな)が病死し、綱吉(つなよし)が5代将軍になると、高田藩の審理のやり直しを自ら言い出して、翌年(天和元年)6月、親裁(しんさい/将軍自ら裁判を行うこと)をした。その結果、小栗父子は切腹、永見・荻田は八丈島に島流し、他にも三宅島配流処分や追放・お預けなど両派の多くの重役などが処分された。さらに藩主・光長は、騒動の責任を問われ領地没収され伊予(いよ)・松山藩に、養子・綱国は備後・福山藩に、それぞれお預けとなり、高田藩・松平家は改易(知行没収)とされた。

 

 新将軍・綱吉にとっては、重臣同士の争いに際して、藩主・光長がリーダーシップを発揮しなかったことが腹に据えかねた末の、逆転判決・高田藩瓦解という厳しい判決になったようである。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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