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市川團十郎家に最も近い歌舞伎の名家【松本幸四郎家】

江戸っ子が熱狂した歌舞伎役者たち【第2回】


市川團十朗家とともに現代歌舞伎界にもその名が轟いている「松本幸四郎(まつもとこうしろう)家」。初代から4代目までその芸歴と活躍を紹介する。


 

松本幸四郎

寛政6年、桐座(きりざ)の「敵討乗合話」に山谷の肴屋五郎兵衛役で登場した4代目松本幸四郎。親の敵・志賀大七を討たせる義侠の魚屋を演じた。

 

 初代松本幸四郎は、下総国小見川(千葉県香取郡)生まれ。元禄の始めに江戸に出て久松多四郎という役者の弟子になった。芸名を久松小四郎(松本小四郎ともいう)と名乗り、女方から立役(普通の男役)に転じた。敵役も引き受け「武道荒事(武芸を見せる荒武者)」にも力量を発揮し、「初代團十郎の面影がある」と絶賛されたという。この時代には、初代團十郎は伝説の役者に祭り上げられている。享保元年(1716)に、将軍家に男子が誕生し「小四郎」と命名されたことから、同じ名前をはばかって「幸四郎」と改名した。

 

ここで「松本幸四郎」が誕生したことになる。初代・幸四郎は、様々な芸風で卓越した技量を示したが、一方で江戸の芝居小屋・森田屋や市村座の座頭(一座のトップ役者)を勤め、2代團十郎と名声を分かち合うほどの名声を博した。

 

 2代目は、初代の養子として舞台に立ったが、実は2代・團十郎の隠し子であったという説もある。その説を地で行った訳でもあるまいが2代目は、3代目・幸四郎を実子・幸蔵に相続させて、自らは4代目・團十郎を襲名した。これには世間も「やはり、2代目幸四郎は團十郎(2代目)の御落胤であったか」と納得したという。この襲名を機会に、2代目・幸四郎(4代目・團十郎)は、これまでの芸風・実悪(現実にいる悪人の役柄)から「荒事」「実事(普通の常識的な男役)」などに転換した。『寺子屋(菅原伝授手習鑑)』の松王丸、さらには熊谷次郎直実(くまがいなおざね)、源頼朝(みなもとのよりとも)を狙う平家の景清などを演じて名声を得た。

 

 ところが襲名して16年後、4代目・團十郎は再び旧名の松本幸四郎に戻り、実子の3代目・幸四郎に「5代目・團十郎」を名乗らせた。さらにその2年後には、自らを3代目・海老蔵として、5年後に引退した。この幸四郎・團十郎は、江戸の木場に住んでいたことから「木場の親玉」と呼ばれ、門弟を集めて技芸研究会「木場講」を開いた。この研究会から、有名な初代・中村仲蔵の「忠臣蔵・5段目」の斧定九郎の演技に新しい工夫を凝らした演出・役柄が生まれた。

 

 3代目・幸四郎(5代目・團十郎)は、2代目の実子で、母親は2代目・團十郎の養女であった。歌舞伎評判記の芸位は「極上上大吉無類」という最高の位を極めた。人間的にも実直で穏やかな人柄から多くの人に信頼され、また文人との関わりも多く自らもいくつかの著書を残している。4代目・幸四郎は、京都生まれであったことから、松本幸四郎家に上方仕込みの和事味を持ち込み、柔らかみのある芸風を加味した。

 

 このように松本幸四郎家は、市川團十郎家と江戸時代から深い関係がある家柄・名跡であったことから、現在の市川宗家と松本家の間柄も血縁で結ばれている(現・白鸚は、故12代・團十郎と従兄弟であり、現・幸四郎は13代・團十郎と又従姉妹になる)。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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