複数の名前で撹乱!1人2役の上忍忍者【百地三太夫】と【藤林長門】とは?
乱世を席巻した忍びの者たち 第2回
忍者の活動は秘密裡にすすめることが大前提であった。それゆえ後世に残された史料は少なく、その活動実態には謎が多い。今回は忍者の巣窟ともいえる伊賀でその名を馳せた「百地三太夫(ももちさんだゆう)」と「藤林長門(ふじばやしながと)」をクローズアップ! 残された戒名から2人の同一人物説を解き明かす。

忍者の階級には上忍と下忍があったと伝えられる。上忍はクライアントである戦国武将からの依頼を受ける元請け的な立場。一方の下忍は、上忍からの命令で諜報活動などを担った。
伊賀忍者には「上忍」が組織を支配する構造になっていたらしい。その上忍の中でも、服部・百地・藤林の3家が伊賀国内に存在した300近い土豪の中でも忍びの業を持って配下を支配した大きな勢力であった。百地三太夫の名前で知られるのが百地丹波で、その本拠は喰代(ほおじろ/三重県上野市)で、他にも名張や大和・室生などにも拠点を持つ上忍であった。
百地丹波にはいくつかの伝説めいた言い伝えがある他、忍びであったことの具体的な活躍は記録などに残されていない。ただ、禁裏(きんり/朝廷)護衛を行った上級武士の家柄だとか『絵本太閤記』では「百地三太夫」として登場する。忍者というよりも普通の郷士であり、「石川五右衛門」(いしかわごえもん)の主人という立場である。
天正7年(1579)9月、織田信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)が1万の兵で伊賀に侵入・攻撃した際に、丹波は配下の地侍や下忍を駆使して信雄勢を散々に苦しめ、惨敗させた。このため信雄は父・信長から「父子の縁を切る」とまで言われるほど怒らせたという。記録には「配下に命じて織田方に攻め入らせた」という。また第2次伊賀の乱では「南部の柏原城に籠城して最後まで抵抗して消息を断つ」などとある。
忍術伝書『万川集海』(まんせんしゅうかい)に「人の知ることなくして巧者なるを上忍とするなり。音もなく、臭いもなく、知名もなく、勇名もなし。その功、天地造化の如し」とある。この見立てに従えば、忍びのトップとして多くの「下忍」を使って人に知れずに忍びとしての功績を上げていたのが百地丹波であったろう。その墓は、喰代砦の麓にある青雲寺にあるという。戒名を「本覚了誓(禅門)」という。
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もう1人の上忍・藤林長門は本拠が、甲賀と接した湯舟(伊賀市阿山町)にあった。上忍としての長門は、ある時には近江の大名・六角義賢(ろっかくよしかた)の依頼で敵・百々氏の沢山城(たくさんじょう/後の佐和山城)を配下の忍び48人を駆使して攻撃し、短期間で落城させている。忍びの働きを如何なく発揮させたという。また信雄による侵攻や信長による第2次伊賀の乱などで、信長に従った甲賀と異なり伊賀忍びとして戦い、その名前を高めたという。長門こそ、上忍として君臨した伊賀忍者の統領であった。
ただし百地丹波同様に、藤林長門の言行は詳しく伝えられていない。
ただ江戸時代の延宝4年(1676)に、長門の子孫とされる藤林保武が忍術伝書『万川集海』を執筆し、長門の名前を知らしめている。異説もある。長門と丹波の2人は、実は「一人二役」であったという。忍者は様々な理由から複数の名前を使い分けたともされる。長門と丹波はその典型であり、2人は常にどちらかに存在して下忍を支配していたということになる。因みに長門は湯舟の正覚寺に墓があるが、その戒名を「本覚深誓(信士)」という。丹波の戒名とは「了」と「深」の1字違いで似ている。それに、2人共に目立つような忍びとしての具体性を残していない共通点もある。
伊賀忍びの上忍2人が同一人物というのは、歴史ロマンでもあろうか。