魔王・織田信長を2度狙撃したスナイパー忍者【音羽の木戸】
乱世を席巻した忍びの者たち 第5回
謀術(ぼうじゅつ)、幻術(げんじゅつ)、撹乱(かくらん)など忍者が得意とする技は数あれど、火縄銃による狙撃を得意とする忍者が存在した。その名は「音羽(おとわ)の木戸(きど)」。織田信長を死の淵に追い込んだ狙撃事件の一部始終とは?

敵の重要人物を狙うスナイパーは、数は少ないながら戦国時代にも存在していた。「音羽の木戸」以外に織田信長を狙撃した杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)などが知られている。
「音羽の木戸」とは異名。本名は、木戸(城戸)弥左衛門(きどやざえもん)といい、音羽(三重県伊賀市阿山町)に本拠を置いた忍びである。忍術伝書『万川海集』(まんせんかいしゅう)にも、伊賀流の忍術名人11人の1人として紹介されている。とはいえ、上忍ではなく、伊賀北部の上忍・藤林長門(ふじばやしながと)の配下であった。いわゆる「中忍」と呼ばれるクラスで「下忍」を指揮する小頭であったろうか。
音羽の木戸の得意としたのは、火術であった。つまり鉄炮などを操ることが上手で、中でも狙撃にかけては右に出る者がなかった。雑賀(さいか)の鉄炮集団と並んで「伊賀忍びの鉄炮名人」ともて囃された。勿論、ほかにも火を使って敵方を惑わしたり、慌てさせるなどの火術にも長けていた。「木戸」について『伊乱記』(信長による伊賀の乱を描いた書物)には「謀術火術の妙を得、今なおその流れを汲む者多し。伊賀忍というものはこれらの末流なり」とある。伊賀には代々鉄炮や火術を中心にした忍術があったということである。
天正7年(1579)、「木戸」はさる筋から織田信長の暗殺を依頼された。「木戸」は近江・膳所(ぜぜ/滋賀県大津市)まで行って鉄炮で信長を狙撃した。ところが信長が差していた大唐傘に遮られて失敗した。直後に菓子箱を携えて信長に謁見(えっけん)した「木戸」に、信長は目の前にいるのが下手人(げしゅにん)と知らないまま「木戸」に犯人探しを命じた。このあたり、「木戸」のもう1つの術・謀術の妙を巧みに使った、ということでもあろう。だが、このままでは終わらない。
「木戸」は、再び信長を狙撃する。天正9年のことである。今度は、普通の鉄炮よりも的中率も良く、死亡率も高い大鉄砲を使った。さらには1人ではなく、原田木工・印代判官という鉄炮の上手を誘って、狙撃を実行した。3人は伊賀一之宮の敢国(あえくに)神社に忍び込んだ。信長が、ここで休息することをいち早く知ったからだ。今度こそ、の思いで「木戸」は大鉄砲を信長目掛けて撃ち込んだ。
ところが「木戸」の大鉄砲はじめ3人の鉄炮は信長の周辺を守っていた家臣数人を吹き飛ばしたものの、信長を仕留めることは出来なかった。再び『伊乱記』は書く。「信長公、運や強かりけむ。三人とも打ち損じ、残念ながら音羽村を指して飛鳥の如く逃れたり。信長公の従士等、弓矢を持って追い掛けりといえども、さすがに不案内の山路なれば、遂に見失い討ち漏らせし。この三人は名に負う剛兵なり」。
信長を2度も狙撃し失敗したのが「音羽の木戸」こと木戸弥左衛門であることが、信長に分かってしまった。捕縛された「木戸」は、激しい拷問に遭ったが、依頼主の名前を明らかにしないままであった。そして織田方の隙を見て脱出するが、追っ手に囲まれてしまい、その場で自刃した。
伊賀市・西音寺には「音羽の木戸」弥左衛門の墓碑と弥左衛門が敬慕した修験道の祖・役行者の石像がある。