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戦国関東をかき回した相模北条氏の忍者集団「乱波」の棟梁【風魔小太郎】

乱世を席巻した忍びの者たち 第3回 


関東最大の戦国大名・北条氏お抱えの忍者組織であった風魔一族。その首領である風魔小太郎(ふうまこたろう)の知られざる来歴、戦績などを浮き彫りにする。


 

風魔一族は忍者の主たる任務である情報収集、諜報、敵方の撹乱(かくらん)など以外に、戦場で放火、奇襲などゲリラ戦にも積極的に従事した。

 風魔小太郎という、恐ろしげな名前の忍びは相模国足柄下郡(神奈川県小田原市付近)の生まれで、足柄山を本拠として活動したという。その容貌について『北条五代記』や『古老軍物語』などは「身の丈7尺に余ること2寸(約2メートル半)。手足の筋肉は瘤立(こぶだ)ち、眼は逆さに裂け、黒髭に覆われ、口は大きく、牙が4本も生えていた」と伝えている。

 

 もちろん、これは誇張された表現だが、凶暴怪異な風貌を示して小太郎の恐ろしさを伝えてものであろう。本来の姓は「風間」であった筈だが、その働きから「風魔」「乱波」などと呼ばれるようになり、相模・後北条氏に従っていくつかの合戦にも出ているし、それ相応の手柄を立てている。

 

 武藏(むさし)・河越(かわごえ)城攻防戦でも小太郎の配下であった多くの忍びが偵察などを担当し、勝利に貢献している。この戦いは、北条勢3千に対して敵方の足利晴氏(あしかがはるうじ)・上杉朝定(うえすぎともさだ)・上杉憲政(のりまさ)らは数万の兵力で挑んだものだった。河越城主・北条綱成(ほうじょうつななり)の指揮によって半年間を粘り、結果として北条方の大勝利になった。この時に、敵情探索を行い、相手方が数を恃みに油断しきっていることや、兵力は喧伝されているよりも少ないことなどの情など、敵の弱点を掴んだのが、風魔一党であった。 

 

 天正9年(1581)、甲斐の武田勝頼(たけだかつより)が駿河・浮島ヶ原(静岡県沼津市)に布陣した際には、小太郎の配下の風魔乱波200人が深夜に馬の強奪や放火などを繰り返し武田軍を混乱させたことが記されている。

 

 小太郎は、配下に敵味方の鑑識法を定めてあった。「立ちすぐり」「居すぐり」というもので、立ち上がる時や座る時、右を向く、左を向くなどの意味を持たせた合図を事前に定めておく方法であり、この方法を知らないでいる者は敵ということになる。小太郎が優れた忍びの棟梁であった証拠であろう。

 

 徳川家の甲賀忍者・服部氏のように、風魔の乱波は、北条氏を裏から支え続けたのであった。だが、天正18年(1590)、5代100年間に渡って繁栄した北条氏は、豊臣秀吉の小田原征伐によって滅亡する。この後に関東には、徳川家康が入って来て江戸城を中心とした関東経営を行う。北条の滅亡によって拠り所・働き所を失った小太郎と風魔乱波たちは、忍びの術を応用して盗賊稼業に走ったと伝えられる。

 

 慶長8年(1603)、小太郎と同様に「甲州忍び(透波/すっぱ)」から盗賊に転身した向坂甚内(こうさかじんない)と利害が対立し、遂に小太郎は甚内の密告によって捕縛され、処刑されたという。だが一方では、これだけの忍びの棟梁が簡単に捕縛され刑場(けいじょう)の露(つゆ)と消えるはずがない、とする説もあり、その行方ははっきりないままであるともいう。 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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