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徳川家康が武田氏を倒したとき、織田信長が褒美にくれた領地は広かった!

徳川家康の「真実」


徳川家康は天正10年、武田信玄の代より長年にわたり対峙していた甲斐・武田氏とついに最終決戦をすることとなった。武田信玄が死去して数年、その勢力を懸命に保っていた後継者・武田勝頼。織田、徳川、北条とのせめぎ合いを繰り返していたが、ついに織田・徳川軍を甲斐でむかえうつこととなったのだった。


 

■徳川家康は3国の領主となる!

 

武田勝頼武田信玄の死後、武田家は衰えたと見られがちだが長きにわたり後継者・武田勝頼は勢力を維持。しかし勢いに乗る織田・徳川の大軍を迎えるとともに、家臣らの裏切りにもあい、嫡男や正室とともに自害して果てた。(東京都立中央図書館蔵)

 

 天正7年(1579)9月、武田勝頼(たけだかつより)との同盟関係を解消した北条氏政(ほうじょううじまさ)が徳川家康のもとへ使いを贈り、勝頼を挟撃する約束をした。家康にしてみれば勿怪(もっけ)の幸いで、充分な手はずを整えた後、翌年の天正8年10月12日より高天神城(たかてんじんじょう)攻めを開始させた。攻城開始から160日後の天正9年3月22日、高天神城はとうとう徳川の手中に。これで遠江国に残る武田の城は榛原(はいばら)郡の小山城(こやまじょう)を残すのみとなった。

 

 天正10年2月、信長が嫡男信忠(のぶただ)を遣わし、本格的な武田氏討滅戦を始めようとしたところ、小山城の守兵がみな逃げ出し、遠江国全土が家康の手中に帰した。これにより補給路の安定した家康は駿河口からの甲斐侵攻を担当した。かねて調略を進めていた信玄女婿の穴山梅雪(あなやまばいせつ)が降伏を受け入れたことから、家康は大した抵抗を受けることなく軍を進め、正面から進撃した信忠も右に同じで、3月11日の勝頼自刃をもって武田氏は滅亡。

 

 29日に行われた論功行賞で、家康は三河・遠江に加え、駿河国の支配をも信長から認められた。

 

監修・文/島崎晋

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

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