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徳川家康にとって尊敬する名将・武田信玄の死はどのような意味があったのか?

徳川家康の「真実」⑮


徳川家康にとって武田信玄は苦渋をなめさせられた存在であり、畏敬の念を抱いていた武将であったことも知られる。信玄の死の直前の家康の状況を紹介する。


 

■『信玄の身に何か重大なことが起きたのではないか』
三方ヶ原の家康の悪夢から間のなく戦国の名将が旅立つ

 

武田信玄
信玄は持病が悪化したことで、信長との決戦 上杉謙信を目前にして息絶えた。死因には狙撃説があり、最後の戦いとなった野田城には、信玄を撃ったといわれる火縄銃「信玄砲」が遺されている。(東京都立中央図書館蔵)

 

 徳川家康(とくがわいえやす)が生涯最大級の大敗北を喫したのは元亀3年(1572)12月22日のこと。場所は家康の居城である遠江(とおとうみ)国・浜松城の北に位置する三方ヶ原(みかたがはら)、相手は甲斐・信濃2国に加え、上野(こうずけ)国の西半分、駿河(するが)国の大半を支配下に置く武田信玄(たけだしんげん)だった。

 

 三方ヶ原で勝利した信玄は堀江城攻めに着手するが、容易に落とせないと判断すると、遠江国刑部で越年し、改めて野田城の攻略を開始した。

 

 家康は浜松城を出陣しながら、兵力の差が歴然としていることから手の打ちようがなく、吉田城に入って状況を観望するしかなかった。信玄がここまで強気に出られたのは、争っていた越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)、相模の北条氏と同盟を結び、後顧の憂いをなくしたからで、逆に家康が頼りとする織田信長(おだのぶなが)はあちこちに敵を抱え、岐阜城から動けずにいる。家康はほぼ単独で信玄を迎え撃つしかなかった。

 

 粘っていた野田城も天正元年(1573)2月10日頃に降伏。数日後、京にいる将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が信長を「御敵」と指弾して挙兵に踏み切り、各地に檄を飛ばしていることを知った家康は戦慄を覚えたに違いない。

 

 同月17日、武田軍本隊が野田城を離れた。そのまま西へ進むか南へ向かうかのどちらかと思われたが、意外にも一行は東北方に進んで、設楽郡の長篠(ながしの)城に入った。

 

 これはまた何かの罠か。家康の脳裏に三方ヶ原の悪夢が蘇る。

 

 だが、3月12日に長篠城を後にした武田軍本隊が、奥三河と信濃の境から1か月近く動かずにいたことで、家康の不安は疑念へと変わった。

 

 信玄の身に何か重大なことが起きたのではないかと。

 

 果たして、信玄は持病が悪化して重病の床にあり、4月11日には危篤状態、翌日に息を引き取った。喪こそ発せられていないが、武田軍が明らかな撤退を開始するに及んでは、信玄の死を自白しているようなもの。思いがけず窮地を脱した家康は安堵の胸をなでおろしたに違いない。

 

日本最大級の大きさを誇る徳川家康像。

 

【歴史の真説】武田信玄の遺言の中身は後世のつくり物⁉

 

おのれの死期を悟った信玄は重臣たちを前に、自分の死を3年間秘匿すること、家督は孫の信勝に相続させ、信勝が16歳になるまで勝頼は代行を務めること、信長が攻めてきたら山岳地帯で迎え撃ち、持久戦に持ち込むこと、上杉とは和睦すること、自分の葬儀は無用などを遺言したと言われ広く流布しているが、それを伝える文献は江戸時代初期に著わされた軍記の『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』のみ。事実だとしても、履行されたのは足掛け3年の秘匿だけだった。

 

監修・文/島崎晋

(『歴史人』20232月号「徳川家康の真実」より)

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