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家康が迎えた「正室」と「側室」

「将軍」と「大奥」の生活㉖

■16人もの子を成した家康の正室は2人のみだった

【家康と大奥の主要人物と子女】

 徳川家康は10代半ばで最初の結婚をしている。相手は当時の主君・今川義元(いまがわよしもと)の姪にあたる築山殿(つきやまどの/西光院/さいこういん、清池院/せいちいん)で、弘治3年(1557)に駿府にて祝言(しゅうげん)をあげた。2年後に長男・信康(のぶやす)、その翌年には長女亀姫をもうけた。

 

 だが築山殿と信康は天正7年(1579)、いわゆる「信康・築山殿事件」で殺害される。理由は諸説あり、今もって謎が多い。亀姫は三河の有力国人・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に嫁ぎ、四男一女をもうけて血脈を繋ぐ。

 

 築山殿の没後、家康は長く正室を置かなかったが、天正14年(1586)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)との政略結婚で、秀吉の異父妹である朝日姫(あさひひめ)を迎えた。当時、家康は45歳になっており、朝日姫は44歳。夫婦らしい関係もなかったとみられ、2年後には朝日姫は京へ帰って聚楽第(じゅらくだい)に留まり、天正18年に病死した(47歳)。当然というべきか、家康との間に子はなかった。

 

 家康の2度の結婚は典型的な政略結婚で、乱世ではごく普通の結婚ともいえた。この両名以外に、家康は20人ほどの側室を持った。

 

 天正2年(1574)、家康の二男秀康(ひでやす)が生まれた。母は小督局(こごうのつぼね/お万、長勝院/ちょうしょういん)。彼女は築山殿の侍女を務めていたが、家康の手が付いて側室となり、秀康を産んだ。ほどなく秀康は秀吉へ、さらに結城(ゆうき)家へ養子入りして結城秀康と名乗るが、慶長12年(1607)に34歳で病死する。小督局は秀康の死を悲しんで出家し、元和5年(1619)、72歳まで生きた。

 

 こうした事情も関連して、三男の秀忠が後継者となり、やがて2代将軍の座につく。秀忠の母は西郷局(さいごうのつぼね/宝台院/ほうだいいん)という女性で、三河の有力国人・西郷氏の養女を経て家康が側室にした。秀忠誕生は天正7年4月。その5ヵ月後に兄・信康の自刃(殺害)があったのも運命といえよう。西郷局は翌年に四男忠吉(ただよし)も産んだが、天正17年に28歳の若さで亡くなった。

 

 家康の正室は前述の2人だけであったが、正室に近い立場に置かれた側室が複数いた。先述の西郷局はとくに愛されていたという。江戸入り後は相応院(そうおういん/九男義直/よしなおの母)、養珠院(ようじゅいん/十男頼宣/よりのぶ、十一男頼房/よりふさの母)、英勝院(えいしょういん/五女・市姫の母)らが、家康の「女中三人衆」と呼ばれ、他の側室と別格に扱われていたことが『多聞院日記』からも窺(うかが)える。

 

 家康は56歳を迎えた慶長2年(1597)、17歳のお夏(清雲院/せいうんいん)を迎えるなど精力旺盛であった。江戸入府後、家康は江戸幕府につながる政治基盤を築いていく。「大奥」という呼称が史料に出てくるのは4代将軍家綱(いえつな)の時代だが、その原形は2代の秀忠と正室・お江(ごう)の時代から主に形成されていく。


家康の最初の正室・築山殿の墓。西来院(静岡県浜松市)にある築山殿の墓。武田氏への内通を疑った織田信長は、築山殿と長男・信康の処刑を家康へ要求。家康は苦渋の決断を下し、ふたりは不遇の死を遂げた。

監修/畑尚子、文/上永哲矢

『歴史人』202110月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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