家重・家治・家斉と「大奥」の関係
「将軍」と「大奥」の生活㉑
■正室と早くに死別するが宗家と清水の当主をもうけた9代・家重

【家重と大奥の主要人物と子女】
吉宗とお須磨の間に生まれた家重(いえしげ)は、3歳で母を亡くし、その後の結婚生活も順調とはいかなかった。正室の比宮増子(なみのみやますこ/証明院/しょうめいいん)は伏見宮邦永親王(ふしみのみやくにながしんのう)の娘で家重の1歳上。21歳の享保16年(1731)に結婚し、2年後に懐妊したが早産し、その年に亡くなってしまう。家重の将軍就任前のことであり、御台所(みだいどころ)とは呼ばれなかった。
側室のお幸(こう/至心院/ししんいん)は増子(ますこ)の御側付(おそばづき)として江戸に入り、家重の寵愛を受けて側室に迎えられた。元文2年(1737)、家重との間に嫡男の家治(いえはる)を出産。すでに増子が亡く、次期将軍の生母として最も重んじられる存在となる。
もう一人の側室がお遊喜(ゆき/安祥院/あんしょういん)である。浪人の三浦義周(みうらよしちか)の子で、旗本・松平親春(まつだいらちかはる)の養女から西の丸御次、中﨟(ちゅうろう)となり側室に迎えられた。延享2年(1745)に家重の次男万次郎(まんじろう/のちの清水家当主・徳川重好/しげよし)を産んだ。お遊喜を寵愛した家重は、お幸を牢に閉じ込め、吉宗に叱責される一幕もあった。お幸は延享5年、家重より先に没したが、安祥院は寛政元年(1789)、69歳まで存命し、余生を江戸城外の桜田御用屋敷で過ごした。
■良好な夫婦仲ながら嗣子に先立たれた10代・家治

【家治と大奥の主要人物と子女】
家重の嫡嗣(ちゃくし)として生まれた家治(いえはる)は、祖父・吉宗没後の宝暦4年(1754)、閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)の娘・五十宮倫子(いそのみやともこ)を正室に迎えた。宝暦10年、父家重の隠居により第10代将軍に就任、倫子は御台所となる。過去の将軍・京出身の姫夫婦とは異なり、家治は倫子を寵愛し、二女をもうけている。あまり頻繁に大奥に訪れるので、倫子付きの御年寄たちが拒(こば)むと、家治付きの女中らが憤慨、不和が生じて、それを家治の乳母・岩瀬がなだめるという一幕もあった。
宝暦12年、側室のお知保(ちほ/蓮光院)が長男(後の徳川家基/いえもと)を出産。のちに倫子が34歳で死去し、お知保が大奥で最上位となった。
だが安永8年(1779)に、家基は18歳で急死。もう一人の側室、お品(しな/養蓮院/ようれんいん)も次男貞次郎(ていじろう)を出産したが、生後4ヵ月で早世した。落胆した家治は一橋家の治済(はるさだ)の子、豊千代(とよちよ/のちの家斉)を養嗣子に迎える。
家重・家治期の大奥は松島が筆頭上﨟御年寄(ひっとうじょうろうおとしより)として大きな権力を持っていた。江戸時代の随筆集である『甲子夜話/かっしやわ』には彼女が狂言師を大奥に招いたことが記されている。
- 1
- 2