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四代「家綱」五代「綱吉」と大奥の関係

「将軍」と「大奥」の生活②

■側室に不幸が相次ぎついに跡取りを残せなかった家綱

【家綱と大奥の主要人物】紫色は正室(御台所)。薄い紫色は側室。

 寛永18年(1641)、家光(いえみつ)とお楽の方(宝樹院)との間に生まれた家綱(いえつな)。家光38歳のときの初めての男子で、誕生と同時に世継ぎに決められていた生まれながらの将軍であった。

 

 17歳を迎えた明暦3年(1657)、伏見宮貞清親王(ふしみのみやさだきよしんのう)の娘・顕子(あきこ/高巌院/こうげんいん)を正室に迎えた。宮家との縁組は、摂家の鷹司家と緑組した家光の時よりも高い家柄を望んでのことであった。家光のように形式的な婚姻であったためか、二人の間に子は誕生せず、顕子は延宝4年(1676)に37歳で世を去った。

 

 家綱は数人の側室がいたが、側室にも不幸が続いてしまった。お振(ふり/養春院/ようしゅんいん)、お満流(まる/円明院/えんみょういん)と、寵愛した側室はいずれも家綱の子を身ごもるが、お振は出産前に熱病で死去。お満流は流産した。家綱も病弱だったようで、その2年後の延宝8年に40歳で急逝(きゅうせい)してしまう。これにより、徳川宗家による世襲の将軍は絶えてしまった。

 

 ただ、家光とお振(自証院)の長女で家綱の姉にあたる千代姫(ちよひめ)は、寛永16年(1639)3歳にして尾張徳川家へ輿入れ。夫・徳川光友(みつとも)との間に綱誠(つなのぶ)、義行(よしゆき)の二男をもうけ、家光の血脈を後世につないだ。

 

 彼女の尾張家への輿入れは家綱の誕生前であり、もし家綱が生まれなければ尾張徳川家の男子が将軍となっていたかもしれない。

 

 また4代家綱の時代は、大奥の法令がより厳格に定められた時期でもあった。明暦の大火(1657)で焼けた本丸御殿が再建され、家綱が仮住まいの西の丸から本丸へ戻った際、「奥方條目(おくがたじょうもく)」が制定。元和4年(1618)の「壁書(かべがき)」をより詳細にしたものである。

 

 寛文10年(1670)には女中の心得を箇条書きにした「女中法度(じょちゅうはっと)」などが発せられた。家綱の幼少時より権勢をふるっていた大奥老女・近江局(おうみのつぼね)がその直前に亡くなり、それらの役替えにともなう措置と推定される。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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