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老中さえも恐れた「大奥」の政治力

「将軍」と「大奥」の生活①

春日局により「大奥」が誕生


14代家茂(いえもち)正室・和宮(かずのみや)
異母兄・孝明(こうめい)天皇より和宮の名を賜る。有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたが、攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認めてはと岩倉具視(ともみ)の意見により降嫁。国立国会図書館蔵

 男子禁制の空間である大奥が江戸城本丸御殿(ごてん)に誕生したのは、2代将軍秀忠(ひでただ)の時代と推定される。後述する五箇条の大奥法度(はっと)が元和4年(1618)に出されているからだ。大奥に出された最初の法度ではないかとされている。

 

 江戸時代に入ると、上は将軍から下は豪農・豪商クラスまで、家内部は「表(おもて)」と「奥(おく)」のふたつで構成されるようになる。大まかに言うと、「表」は将軍が仕事をする場で、「奥」は女性や男性の家族が生活する場だ。そして外部の者が「奥」に出入りすることは厳格に制限された。

 

「奥」は閉じられた空間だったが、江戸城の御殿の場合は「奥」がさらにふたつに分けられる。将軍が日常生活を送る「中奥(なかおく)」と、将軍の家庭を支える女性たちだけが住む「大奥(おおおく)」のふたつである。

 

 すなわち、秀忠から3代将軍家光(いえみつ)の時代にかけて、江戸城が将軍のお膝元(ひざもと)にふさわしい偉容(いよう)を持つ巨大城郭に変身するのに合わせ、御殿は「表」「中奥」「大奥」の3つに分かれていった。

 

 表では幕府の政務のほか、諸大名が将軍に拝謁(はいえつ)する行事が執(と)り行われた。中奥では将軍が日常生活を送り、出入りできるのは原則として側近や身の回りの世話をする近習(きんじゅう)に限られた。そして大奥では御台所(みだいどころ)、側室、将軍の子女、勤務する奥女中が生活し、将軍を除いて外部からの出入りは禁じられた。

 

 奥が中奥と大奥に分かれる過程で大奥への出入りは厳しく制限されたわけだが、将軍の世継ぎが生まれ育てられる空間である以上、閉じられた空間にならざるを得ない。こうして、大奥は謎の空間としてのイメージがたいへん強くなるが、家光の世継ぎ誕生に奔走(ほんそう)した乳母(うば)の春日局(かずがのつぼね)がそこで果たした役割は大きかったとされる。

 

 表や中奥に出入りする将軍の家臣たちからみると、立ち入ることができない大奥とは将軍のプライベートな空間に他ならなかった。まさに将軍の家庭なのであり、将軍と一体化していた大奥に気を遣わざるを得ない。

 

 言い換えると、大奥に勤める奥女中たちの機嫌を損じることをたいへん恐れた。特に奥女中のトップである「御年寄(おとしより)」は、将軍の威光をバックに、幕政のトップたる老中もその威を恐れる存在となる。

 

 実際、将軍は大奥を代表する御年寄の意向に左右されがちであった。よって、御年寄に嫌われてしまうと、老中であってもその地位を保つことは難しい。任命権者である将軍に御年寄が直接働きかけることで、老中職を解かれてしまうからだ。逆に御年寄の将軍への口添えにより、老中を筆頭とする幕府の役職を得ることも可能であったが、その裏で莫大な金品が動いていたのは言うまでもない。賄賂(わいろ)である。

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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