すでに冷めきっていた…? 家康と築山殿の「夫婦仲」
史記から読む徳川家康⑩
3月12日(日)放送の『どうする家康』第10回「側室をどうする」では、松平家康(まつだいらいえやす/松本潤)が初めて側室を迎えることとなった。家康が側室との間に新たに子をもうけた頃、中央では異変が勃発。織田信長(おだのぶなが/岡田准一)や武田信玄(たけだしんげん/阿部寛)らが動きを見せ始めていた。
家康が側室を初めて迎える

静岡県静岡市にある駿府城公園。今川氏の館があった場所で、幼い頃から瀬名もこの辺りに住んでいたという。名前の由来となった「瀬名」「瀬名川」といった地名が、現在も静岡市葵区に残っている。
一向一揆を鎮圧した松平家康は、三河国内の支配を強める一方、今川方の国衆の調略を開始していた。
その頃、家康の正室である瀬名(せな/有村架純)は、岡崎城下のはずれにある築山(つきやま)に移り住む。直接、領民の声を聞き、家康の政務を支えるためという。瀬名が人を選ばず、訪れる者の話を聞いているなか、家康に側室を置くことを提案しに於大の方(おだいのかた/松嶋菜々子)が築山にやってきた。
於大や瀬名の側室探しの末に選ばれたのは、家康が上ノ郷城で滅ぼした鵜殿(うどの)家の分家の娘・お葉(北香那)だった。当初は、側室を迎えることに抵抗し、お葉を危険視する家康だったが、お葉の実直な人柄に次第に惹かれていく。やがて二人の間には娘が生まれた。
そんななか、中央で将軍が討ち死にするという大事件が勃発した。急報が織田信長にもたらされた頃、甲斐の武田信玄は、今川氏真(いまがわうじざね/溝端淳平)の家臣の調略を家臣に命令。駿府(すんぷ)を手中にすべく動き出した。信玄は、家康にも接触を試みようとしていた。
全国の武将を震撼させた「将軍殺し」
1564(永禄7)年2月の一向一揆の鎮圧から4か月ほどで、家康は三河国西部だけでなく、東部もほぼ制圧するに至った。このとき、家康は東三河を統括する役割を酒井忠次(さかいただつぐ)に任じている(『三河物語』『松平記』)。
今回のドラマでは、正室の瀬名が築山に庵(いおり)を与えられる場面が描かれた。一般的には、今川氏のもとから岡崎城の家康のもとに帰って以降、瀬名姫が城に入ることはなく、二人は別居状態だったとされる。瀬名姫が暮らした場所が岡崎城下の築山で、その頃から「築山殿」と呼ばれていたという。
家康が側室をとったのは、別居状態ではこれ以上の子が生まれるのを期待できない、との見解があったからともいわれる。もっとも、当時の戦国武将にとって夫妻が別居するのはさほど珍しいことではないので、別の理由があったのかもしれない。
築山殿は家康より年上で、今川義元(いまがわよしもと)の姪であることを鼻にかけ、ことあるごとに人質だった家康を侮蔑する態度をとったといわれている。近年は築山殿の母は義元の妹ではなかったとする説が有力視されているが、今川氏のもとでの家康の立場が、築山殿の実家である関口氏より格下だったことに変わりはない。
そんな築山殿の人物評は著しく低い。
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(『武徳編年集成』)
「生得悪質、嫉妬深き御人也」(『玉輿記』)
「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」(『柳営婦人伝』)
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