三河一向一揆の鎮圧後、徳川家康はなぜ離反した家臣に寛大だったのか?
徳川家康の「真実」⑬
徳川家康の生涯において「三大危機」のひとつにあげられる三河一向一揆。この戦いにおいて、家康の家臣のなかには、自らの信仰心から一向一揆側に与する者もあらわれ、家臣団が2分したことで家康が危機を迎える一因にもなった。だがしかし、一揆鎮圧後、家康は敵方である一揆に味方した家臣たちを赦免したという。この寛大さがのちの天下取りを支える家臣を生んだ。
■松平家が真っ二つに!? 家康三大危機のひとつ

東三河家老 酒井忠次
吉田城主の小原鎮実を撤退させ無血開城し、平定後はそのまま吉田城主となり東三河家老に。東京国立博物館蔵 出典:Colbase
三河国平定も目前かと思われた永禄6年(1563)9月、家康を窮地に追い込む出来事が勃発する。三河で一向一揆が起こったのだ。この一揆は、家康三大危機の一つにも数えられており、21歳の家康を襲った大きな試練だった。
一向一揆は、一向宗(浄土真宗、本願寺派)の門徒による一揆で、門徒には農民や非農業民、地侍や武士もいた。三河では、土呂(とろ/岡崎市)の本宗寺、野寺(のでら/安城市)の本證寺(ほんしょうじ)、佐々木(岡崎市)の上宮寺(じょうぐうじ)、針崎(はりさき/岡崎市)の勝鬘寺(しょうまんじ)など有力な本願寺の寺院が建立されていた。
三河で一向一揆はなぜ起こったのか。家康の家臣が上宮寺(もしくは本證寺)から兵粮(ひょうろう)を強制的に徴収したことがそもそもの発端だったとの説がある。そうではなく、本願寺教団が掌握する水運や商業などを狙い、意図的に家康側が一揆を誘発したとの見解もあった。しかし、三河統一が目の前という時になり、家康側から一揆を無理に引き起こすなどあり得るであろうか。家康は永禄3年以来、合戦に次ぐ合戦を繰り広げていた。それに永禄の飢饉も重なり、兵粮米の確保は緊急課題となっていた。そうした事を想う時、一揆は兵粮米の徴収に絡んで偶発的に起きたものと推定される。
一揆が厄介だったのは、一部の松平一門(桜井の松平家次/まつだいらいえつぐ/や大草/おおくさ/の松平昌久/まさひさ)や家臣(渡辺守綱/わたなべもりつな/や石川康正/いしかわやすまさ、夏目吉信/なつめよしのぶ、本多正信/ほんだまさのぶ)らが、一揆方に与したことだ。『三河物語』のなかには、家康が出陣してくると、退却していく一揆方の侍の姿が何度か描かれている。敵対したとは言え、主君に槍を向けることに抵抗があったのだろう。一揆勢との本格的な戦闘は永禄7年1月から始まり、激戦が展開されるが、当初は勝負はつかず。
だが、同年2月になると家康方が優勢となり、一揆方に厭戦(えんせん)気分が蔓延。和議の話が持ち上がる。家康は和議に乗り気ではなかったが、家臣の諌(いさめ)もあり、応じることとなった。家康が一揆参加者の赦免や、寺内の不入特権の保証を約束したために和議は成立する。が、一揆が解体すると、家康は約束を反故にした。一揆方だった本多正信や渡辺秀綱らは追放。一向宗の寺院も改宗を迫られることになる。「以前と同じようにするとの約束ではないか」と抗議の声があがると、家康は「以前は野原だったのだから、もとのように野原にせよ」と言い、堂塔を破壊した。本多正信は後に帰参することになるが、大久保忠世(おおくぼただよ)の取りなしがあったとも言う。家康には家臣に裏切られても許す寛大さがあった。
■三奉行どころか奉行人は多数存在した
三河一向一揆という一門・家臣団の分裂という危機を乗り越えた家康は、永禄7年(1564)の夏より、東三河に本格的に侵攻していく。駿河の今川氏真(いまがわうじざね)は、遠州の国衆の反乱により、家康に反撃することはできなかった。東三河は次々と家康方の手に落ち、永禄9年5月、今川方の牛久保城の牧野氏が降伏したことにより、家康による三河平定は成ったとされる(牧野氏は最後まで今川方として抵抗していた)。
さて、三河を平定した頃の松平家の家臣団編成は「三備」と呼ばれている。東三河は酒井忠次(さかいただつぐ)が頭、西三河は石川家成(いしかわいえなり)が頭となり、それぞれの地域の松平一族や国衆が配された。そして家康のもとには、本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすま)・鳥居元忠(とりいもとただ)ら旗本が編成されたのである。これが「三備」と呼ばれる軍制だ。酒井・石川という譜代の重臣を東西に配したと言えよう(両家老体制)。ちなみに酒井忠次は、今川から奪った吉田城(愛知県豊橋市)の城代となっている(1565年3月)。石川家成は、一向宗であったが、浄土宗に改宗してまで、三河一向一揆の際も、家康に従おうとしたと言われる。戦を勝ち抜いていくには、しっかりとした強力な軍事力を築いていくことが必要であった。
また、この時期には、三河三奉行という職が置かれていたとされてきた。三奉行とは、高力与左衛門尉清長(こうりきよざえもんのじょうきよなが)・本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)・天野三郎兵衛康景(あまのさぶろべえやすかげ)のことだ。彼ら3人は「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と評されたという。温厚な高力、鬼の本多、どちらでもない天野。これは、バランスのとれた人材配置として、家康の人材登用の巧みさを象徴するものとされてきた。
だが、三河三奉行制なるものはなかったという説が近年では有力だ。3人が永禄11年と翌年に発給した禁制は残されているのだが、その内容は「甲乙人の乱妨・狼藉」「山林・竹林の伐採」「押し買い」などを禁じるものである。これだけをもってして、三河三奉行なるものが存在したというのは、如何なものかというのだ。しかも、同じ頃には、他氏(例えば植村・天野・大須賀・鳥居・大須賀・植村・芝田氏)の連名文書も見られる。松平氏の奉行人は、高力・本多・天野の3人に限定されていなかったのだ。奉行人が多数存在したということは、家康は内政にもしっかりと目を向けていたということであろう。
監修・文/濱田浩一郎