思わぬ敗北を喫した桶狭間の戦い後、徳川家康は岡崎城で何を行ったか?
徳川家康の「真実」⑰
織田信長と今川義元が激突した桶狭間の戦い。圧倒的な戦力をもっていた今川方は思わぬ敗北を喫した。徳川家康はこのとき今川方の武将として戦ったが、戦後、なんとか退却に成功し、岡崎城へと入城したのだった。
■桶狭間合戦からの退却 岡崎城入城の経緯

大樹寺・松平8代の墓
大樹寺は松平氏の菩提寺。親氏・泰親(親氏の弟・子の諸説あり)・信光・親忠・長親・信忠・清康・広忠の8代の墓が並ぶ。墓所は家康最晩年の元和元年(1615)に再興された。
桶狭間から帰還した家康は、当初、岡崎城下の大樹寺に入った。岡崎城には、桶狭間から逃れてきた今川軍が駐屯していたためである。このとき、自害をしようとした家康が大樹寺の登誉上人(とうよしょうにん)から「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」の言葉を示され、思いとどまったというが、自害を考えるほど追い詰められていたとは考えにくい。それはともかく、のちに家康は「厭離穢土・欣求浄土」を旗印とした。
桶狭間の戦い後も、鳴海城の岡部元信(おかべもとのぶ)は踏みとどまり、義元の首級を受け取ってから退城している。しかも、帰途には刈谷城の水野信近(みずののぶちか)を討ち取った。これにより刈谷城の水野氏は滅亡し、緒川城の水野信元が刈谷城も手中におさめたとされる。
ただし、今川方の踏ん張りも、ここまでだった。今川方の城将らはみな駿河に撤退し、岡崎城に駐屯していた城代らも退城し始める。そこで家康は、5月23日、「捨城ならば広(拾)はん」といって、岡崎城に入城したのだという。
■岡崎へ帰還を果たした家康の活動と、方針の逡巡

岡崎城
桶狭間の戦い後、入城した家康はその後の10年間をこの城で過ごした。写真には家康の「竹千代」時代と大人になってからの姿の像が並んでいる。
こうして、岡崎城の城主におさまることができた家康は、寺社に禁制を発給している。禁制とは、寺社の求めに応じて発給した、大名が家臣に対して乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を禁ずる制札である。これを家康が発給しているということは、三河の寺社は、家康を支配者として認めていたということを意味している。
ただし、だからといって、すぐに家康が自立できたわけではない。今川義元は討ち死にしたものの、すでに家督は子の氏真(うじざね)が継いでいた。つまり、義元が討ち死にしてしまった以外には、すぐに状況が変わったというわけでもなかったのである。
事実、桶狭間の戦い後、氏真は戦功を賞する感状のほか、戦功のあった家臣に恩賞を与える知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)などを積極的に発給していた。この時点では、氏真も領国の立て直しに尽力していたのである。
桶狭間の戦いまでは、今川方が尾張の大高・鳴海・沓掛、三河の重原・知立などに城将をおき、織田信長の領国を浸食していた。しかし、今川義元(いまがわよしもと)の討ち死にを機に、勢いに乗った信長が、尾張から西三河における今川方を駆逐していく。そのため、今川方から織田方に寝返る国衆も続出したのである。
国衆が大名に従っているのは、所領の安堵を受けているからにすぎない。義元が討ち死にし、信長の勢威が拡大するなか、それまで今川方に従っていた国衆が離反していくのは、仕方のないことである。
そのころの家康はというと、三河北部の挙母城(ころもじょう)・梅坪城(うめがつぼじょう)・寺部城(てらべじょう)などを攻め、さらには尾張の沓掛城(くつかけじょう)も攻めている。ただし、これらの城の帰属が不明であるため、家康が今川氏についていたのか、あるいは織田氏についていたのかはわからない。今川方として織田方の城を攻撃したとする説と、織田方として今川方の城を攻撃したとする説がある。
これらの城は、桶狭間の戦い以前から織田方の影響を受けていたから、すでに織田方になっていたのではなかろうか。それとは別に、家康は、織田方につく緒川城(おがわじょう)の水野信元(みずののぶもと)を攻めて緒川城外の石瀬(いしがせ)でも戦っており、織田方とは対立していたようである。水野信元は、家康の伯父として、桶狭間の戦い直後には家康の危機を救っていた。しかし、織田方についていたことから、結局は衝突することになったのである。
では、家康は今川方として活躍していたのかといえば、そうともいえない。永禄4年(1561)正月、将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が今川氏真に対し、家康と和解するように求めるとともに、今川氏と同盟している北条氏康(ほうじょううじやす)と武田信玄(たけだしんげん)にも、それぞれ協力を依頼している。こうしたことを考えると、家康の軍事行動は、氏真の指示ではなかった可能性が高い。すでに家康は、自立する方法を模索していたとも考えられる。
監修・文/小和田泰経