徳川家康が今川家へ人質に出されている時代の岡崎は誰が治めていたのか?
徳川家康の「真実」⑯
徳川家康が幼いころ、今川家に人質となっていたことは知られている話だが、この時点で家康は松平家の当主であった。では、家康が人質となっていたころ、松平家の本拠・岡崎はだれが治めていたのか?
■今川氏の専制的な支配下で徳川家康の家臣は知行もなかった?

徳川十六善神図
家康に仕え幕府創立に貢献した16人の図。井伊氏以外は、一族が家康誕生以前から松平氏に従う譜代家臣である。
徳川家康が駿府(すんぷ)に滞在していた頃、松平氏の居城である岡崎城は、今川氏に接収されたままになっていた。そして、朝比奈泰能(あさひなやすよし)や山田景隆(やまだかげたか)といったような今川義元(いまがわよしもと)の重臣が城代として派遣されている。
三河への侵攻を繰り返していた織田信秀(おだのぶひで)は天文21年(1552)に没していたが、跡を継いだ信長もまた、侮れない勢力となっていた。今川義元としては、三河の要衝である岡崎を空き城にしておくわけにはいかなかったのである。
もし、家康に血のつながった兄弟がいれば、代わりに人質として駿府に赴き、家康が岡崎城に帰還することはできたかもしれない。しかし、家康には兄弟がいなかった。そのため、引き続き駿府に留まることを命じられていたのである。
このように、岡崎城は、城主である家康が駿府に留められている一方、今川氏の重臣が城代となって管轄するという状況になっていた。こうした支配体制については、従来は三河においては今川義元を頂点とする態勢が構築されていて、松平氏の領国運営は、今川氏の主導によって行われており、松平氏による支配が否定されたとみられてきた。
大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)の『三河物語』には、「今河殿え残らず押領して、御譜代の衆は拾ヶ年余、御扶持方の御宛行(あてがい)成さるべき様もあらざれば」とある。これによると、松平家臣団の所領が今川氏に奪われたことにより、知行宛行も10年ほど行われていなかったという。
■近年、松平家家臣が内政権を握っていたことが明らかに
しかし、近年では、今川氏の権限は軍事にとどまるものであり、政治に関する決定権は松平氏の留守居に委ねられていたとみられるようになっている。この理解によれば、今川義元は松平氏による領国支配の機構を否定せず、むしろ、それを活用していたということになる。これは、一般的な国衆に対する扱いと何ら変わるものではない。
こうした今川氏による三河支配の構造は、家康の元服と無関係ではなかったかもしれない。つまり、家康の幼少の頃には、今川氏によるかなり強権的な支配が行われていたが、これは織田氏による侵攻を防ぐためにも致し方なかったことでもある。やがて、家康が元服して今川軍の先鋒として織田方と対峙することができるようになったことで、権能を移管していったとも考えられる。いずれにしても、家康が元服したのちには、家康自身が重要決定事項を判断している様子がうかがわれる。
【譜代最古参安城譜代7氏】
江戸時代に成立した、格式・故事などをまとめた書物『柳営秘鑑』の中で、最古参に位置づけられるのが以下の7家。譜代武士の中でも、江戸時代には格上として優遇された。
<酒井氏 主な人物:忠次>
三河譜代の中でも、第一の家柄とされる。松平氏と祖先が同じともいわれるが定かではない。忠次(ただつぐ)は、初期の徳川家臣団でも代表的な存在である。三河統一期に吉田城支配を任されるなど信頼は篤かった。忠次が天正14年(1586)に実質的に引退してからは精彩を欠いていたが、2代秀忠(ひでただ)、3代家光(いえみつ)になってから重臣の地位を占めた。
<大久保氏 主な人物:忠勝、忠世>
松平信光(のぶみつ)が岩津城にいたころから仕え、その後は安城松平氏に仕えるが、当初は重臣の扱いではなかった。松平清康(きよやす)、広忠(ひろただ)の代で再び重用される。清康の岡崎城攻めは忠勝(ただかつ)の祖父、忠茂(ただしげ)の献言だった。忠勝の父・忠俊は広忠の岡崎帰還に尽力し、また岡崎城に攻め寄せる松平信孝(のぶたか)を伏兵をもって射殺することに成功している。
<本多氏 主な人物:忠勝、重次、正信>
松平親忠(まつだいらちかただ)から仕える重臣。忠勝の祖父忠豊(ただとよ)は、松平広忠の岡崎城帰還に貢献した人物で、また広忠が安城城奪還戦で織田軍に追い詰められた際は、逃がすために奮戦し討死した。忠勝は早くから武の才能を示し、三河一向一揆で活躍。18歳で150人の軍団長になっている。「鬼作左(おにさくざ)」重次(しげつぐ)は丸根砦(まるねとりで)攻めには旗本として参加している。
<阿部氏 主な人物:正勝、定吉>
阿部氏の祖である忠正(ただまさ)は、松平信光の西三河侵攻の際に、子の正親(まさちか)を松平親忠に出仕させた。正勝の父、正宣は松平清康に仕え、後に松平広忠が岡崎から逃げる際に、阿部定吉(あべさだよし)と共に従う。正勝は家康の人質時から近侍し、ともに元服している。阿部定吉は、子の弥七郎が清康を殺害(守山崩れ)するも、広忠、家康に付き従い政治で存在感を発揮した。
<石川氏 主な人物:家成 数正>
三河の門徒武士の棟梁的存在で、安城松平氏に貢献。丸根砦攻めでは酒井忠次と共に家成が軍の指揮にあたった。その後も酒井忠次と共に重要な位置を占め、三河統一の際には西三河の旗頭となる。数正(かずまさ)は宗家の嫡男・康正の嫡子であったが、康正が三河一向一揆の総大将的位置付けであったため、宗家を継がなかった。
<青山氏 主な人物:忠成>
元々松平親氏に仕えていた。光教のときに松平信光に仕え、岩津城攻略で功を立てた。忠成の祖父・忠世(ただよ)は松平信忠(のぶただ)に仕えており、信忠に不正の行いがあったとしても世継ぎの清康がいるので主君を変えることはなかった。これを知った信忠は清康に家督を譲り隠居した。父・忠門は桶狭間の戦いに随従。忠成は、家康の小姓として信頼厚かった。
<植村氏 主な人物:家存>
遠江上村から、三河に移り住み松平長親(ながちか/親氏の子、または弟)に仕えた。家存の父・氏明は松平清康に仕えた。守山崩れの際には、弥七郎を誅(ちゅう)している。また、松平広忠を殺害(あるいは死去の原因)した刀傷事件の浅井某も誅している。家存は、軍功があって、三河統一の際には、酒井忠次・石川家成・数正とともに家老に任ぜられた。
監修・文/小和田泰経