実は徳川家康は、桶狭間の戦いで今川方として獅子奮迅の活躍をしていた!
徳川家康の「真実」⑭
織田信長と駿河の今川義元が激突した桶狭間の戦い。この戦いで徳川家康は今川方として大きな活躍を見せた。
■国境の国衆として出陣 前哨戦で勝利を収める

大高城
水野氏が治め、織田信秀の支配下にあったが、信長に代替わりした後に、計略により今川氏の支配下となる。信長はこれに対抗して丸根砦・鷲津砦を築いた。桶狭間合戦を前に元康が兵糧入れしたことで名高いが、その時期は前日とも前年ともいわれ諸説ある。
今川義元(いまがわよしもと)は尾張の熱田に近い鳴海城(なるみじょう)や大高城(おおたかじょう)までを勢力下に加えていたが、織田信長は鳴海城の周囲に丹下砦(たんげとりで)・善照寺砦(ぜんしょうじとりで)・中島砦(なかしまとりで)、大高城の周囲に鷲津・丸根砦(まるねとりで)などを築いて包囲をしていた。そこで、永禄3年(1560)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を出立し、両城の解放に向かったのである。
このとき徳川家康は、今川方の武将として義元から先鋒を命じられている。尾張は三河の隣国であり、義元が家康に先鋒を命じたのは、正当な判断だったろう。
なお、このとき家康は、大高城を守る鵜殿長照(うどのながてる)からの依頼により、大高城に兵糧を運び入れることを義元に命じられたという。これが有名な大高城兵糧入れであるが、年次については異説もあり、実態はよくわかっていない。『家忠日記増補』では1年前にあたる永禄2年のこととしており、大高城兵糧入れに参加した徳川家臣の家伝でも、すべて永禄2年としている。実際には、桶狭間(おけはざま)の戦い以前に行われたものであろう。そもそも、大高城を解放することを目的に出陣しているわけだから、わざわざその前日に兵糧を運び込む意味を見いだせない。
5月19日の早暁、今川方は大高城の付城である丸根砦と鷲津砦を陥落させた。丸根砦を落としたのが家康で、鷲津砦を落としたのが朝比奈泰朝だった。大高城を解放した家康は、そのまま大高城に入っている。
このあと、大高城には沓掛城を出立した今川義元が入る予定であったらしい。しかし、大高道を経由して桶狭間で休息していたところ、織田信長に急襲されて討ち死にしてしまったのである。
大高城に入っていた家康は、夕方、織田方に属していた伯父水野信元(みずののぶもと)の使者として派遣されてきた浅井道忠(あさいみちただ)から義元の敗死を知らされたという。信元は、そのころは織田信長に従っていたが、家康に目をかけていたのかもしれない。
ただ、義元の敗死が虚報であったとしたら、取り返しのつかないことになる。そのため、家康は物見を出して戦況を確認し、人目に付かない夜半になってから大高城を退城した。家康は、とことん慎重だったわけで、『甲陽軍鑑』によれば、これを聞いた武田信玄が、「武道分別両方達したる人也」と評価したという。
大高城を退城した徳川軍は、浅井道忠を嚮導(きょうどう)として岡崎に向かった。途中の池鯉鮒(ちりゅう/知立)では、水野氏の軍勢に阻まれたが、浅井道忠が同行していたため、攻撃をされることはなかったという。こうして難を逃れた家康は、翌20日、岡崎城外の大樹寺(だいじゅじ)に入った。
監修・文/小和田泰経