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毛利家が頼り過ぎた小早川隆景の「政治力」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第76回

■小早川隆景の死後に迷走した毛利家

JR三原駅(広島県三原市城町1丁目)に立つ小早川隆景像。隆景は永禄10年(1567)、三原の地に三原城を築いている。

 小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、毛利元就(もうりもとなり)の三男として生まれ、三本の矢の逸話で知られるように、兄隆元(たかもと)や甥輝元(てるもと)を支え、毛利家の勢力を維持させた武将として有名だと思います。

 

 隆景は若くして小早川家を継ぎ、毛利家の水軍を率いて中国制覇を支えています。豊臣政権下でも、九州征伐や小田原征伐に従軍して活躍し、文禄の役では六番隊の主将として立花宗茂たちを率いて戦っています。

 

 元就の死後も毛利家の勢力を維持できていた背景には、隆景が指揮官としての能力に優れ、数々の戦で活躍した事に加え、その類まれなる「政治力」が大きく影響していたと思われます。

 

■「政治力」とは?

 

「政治力」とは辞書によると「個人などが、政治的な意思決定プロセスや社会の資源配分において、自身の意図や目標を実現する能力」とされています。

 

「政治力」に含まれる大きな要素として、他者の意見や行動を変化させる「影響力」や利害が対立する相手との間で合意を形成し、自身の利益を最大化する「交渉力」があります。その他にも、人材などの資源を政治目的のために集め、活用する「動員力」や、必要に応じて、物理的な力や法的手段を用いて、他者を従わせる「強制力」も含まれます。

 

 隆景は自分が有する「政治力」を駆使して、毛利家を支えていきます。

 

■小早川家の事績

 

 小早川家は相模国の桓武平氏土肥家の分家を出自とし、鎌倉時代に安芸国の沼田を拝領し土着したのが始まりとされています。

 

 南北朝時代には瀬戸内海方面へ進出し、小早川水軍を築きます。沼田小早川家を本家とし、分家に木村城を本拠とした竹原小早川家などが成立します。

 

 戦国時代になると大内家に従属し、大内水軍(おおうちすいぐん)の一翼を担うようになりました。1543年に、竹原小早川家の当主が若くして亡くなったため、翌年に毛利元就の三男隆景が養子として継ぐことになります。そして、数年後に沼田小早川家の当主も戦死したため、隆景が娘婿となる事で、両小早川家が統一されました。

 

 この養子戦略を経て、小早川家が毛利家一門に加わることになり、次男元春が継いだ吉川家と合わせて「毛利の両川」と呼ばれる存在となっていきます。

 

 陶晴賢(すえはるかた)との厳島の戦いでは、村上水軍(むらかみすいぐん)の村上通康(みちやす)と縁戚関係を結んで水軍の強化に成功すると、大内水軍を抑えて勝利に貢献しています。

 

 兄隆元が急死すると、甥の輝元を支えて、尼子家や大友家と戦いながら、版図を拡大していきます。

 

 畿内から退去した足利義昭を迎えて、信長包囲網に加わると、第一次木津川口の戦いでは勝利したものの、第二次木津川口の戦いでは大敗を喫します。その頃から、中国地方でも織田家が優勢となり、鳥取城を落とされるなど毛利家は防戦一方となっていきます。

 

 そして、本拠地の隣国にまで侵攻を受け、備中高松城を包囲されて窮地に立たされ、秀吉と和議を結びますが、その後、一気に戦局が流動化し始めます。

次のページ■危急存亡の時にみせた隆景の「政治力」

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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