信長に「勇猛」さを愛された河尻秀隆
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第71回
■信長の天下統一を支えた河尻秀隆の「勇猛」

岐阜県恵那市岩村町城山に残る岩村城跡。天正3年(1575)の岩村城攻めで活躍した河尻秀隆は、後に城主として入城。城の改造を行った。
河尻秀隆(かわじりひでたか)は、織田信長の家臣の中でも、豊臣秀吉や柴田勝家とは違って、その実力と実績の割に、あまり一般的には知られていない戦国武将だと思います。
秀隆は信長の部屋住み時代から仕える最古参として、親衛隊とも言える黒母衣衆(くろほろしゅう)の筆頭を任されたともいわれています。
数々の戦にて武功を挙げ、最終的に、国持ち大名並みにまで上り詰めたものの、本能寺の変後の混乱の中で、一揆勢によって討ち取られてしまいます。
早々に表舞台から退出することになったのは、秀隆の「勇猛」さが関係していると思われます。
■「勇猛」とは?
「勇猛」とは辞書によると「勇気があり、何も恐れずに強い姿勢で行動すること」とされています。「勇猛果敢」という熟語の一部として知られており、「決断力があり勇ましく行動する様子」とされ、困難に立ち向かう姿勢に対する褒め言葉として使われています。
一方で似た言葉として捉えられがちな「猪突猛進」は、周囲に配慮せずに突き進む意味があり、褒め言葉としては、あまり使われていません。
秀隆は、信長が信頼し認めるほどの「勇猛」な武将でした。
■河尻秀隆の事績
秀隆は尾張国岩崎村を出自とすると言われていますが、詳細は不明です。信長の父信秀のころに織田家に仕官して、小豆坂の戦いにて今川方の足軽大将の首級を挙げています。そして、家督を継ぐ前の信長に配されたため、信長の家臣団の中では最古参となります。
佐々成政(さっさなりまさ)や蜂谷頼隆(はちやよりたか)、前田利家(まえだとしいえ)たちとともに、母衣衆に任じられています。美濃の斎藤家との抗争では武功を挙げ、猿啄城(さるばみじょう)とその周辺を与えられています。また、上洛作戦のころから信長の側近衆の一人として、今井宗久(いまいそうきゅう)たちとも交流しています。
その後も、秀隆は姉川の戦いや比叡山焼き討ちなど数々の戦に参加し、活躍を見せています。そして、岩村城攻めでの武功により美濃国岩村5万石を得ています。
信長の嫡子信忠の元に配されると、武田家との抗争の中で活躍を続け、結果として甲斐国22万石を任されています。
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