森蘭丸の弟森忠政が抱えていた「過激」さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第69回
■信長も咎めた森忠政の「過激」さ

森忠政が慶長9年(1604)に築城に着手し、元和2年(1616)に完成した津山城(岡山県津山市山下)。明治6年(1872)の廃城令で天守などの建物は取り壊されたが、平成14年(2002)に、築城400年行事の一環として備中櫓が復元された。
森忠政(もりただまさ)は、槍の名手と言われた父森可成(よしなり)や鬼武蔵の異名を持つ兄森長可(ながよし)、信長が寵愛した森成利(なりとし/蘭丸)たちに比べると、一般的に知名度が低い武将です。
しかし、父や兄たちほど武芸に優れていたわけではないものの、小田原征伐では韮山(にらやま)城攻略に参加し、大坂の陣でも多くの首級を挙げるなど武功を残しています。また、早い段階から、兄長可の仇でもあった徳川家康に接近しており、関ヶ原の戦いでは石田三成の直談判を蹴って東軍として戦い、森家の存続に成功しています。
このように忠政は、政治的な判断に優れている一方で、非常に「過激」な言動や行動により、家中を不安定化させていました。
■「過激」とは?
「過激」とは辞書等によると「度を越して激しいこと」または「考え方ややり方が世間の常識からひどくかけ離れていること。穏やかでない思想や行動」とされています。似た言葉として「極端」がありますが、こちらは良い方にも悪い方にも振り切った考えや行動に対して用いられます。
「過激」も振り切っている点では共通していますが、マイナスな表現について用いられる言葉という違いがあります。
■森家の事績
森家は、清和源氏の流れを組む源頼定(よりさだ)を出自とすると称しています。次男定氏の系統が美濃国に土着し、土岐家に仕えたのが始まりとされています。
父可成のころ、斎藤道三(さいとうどうさん)が土岐家に代わり美濃国を支配するようになると、織田信秀(のぶひで)に近づいて信長に使えるようになったようです。可成は信長の尾張統一に貢献し、織田信友(のぶとも)を討つ武功を挙げています。
1560年の桶狭間の戦いにも参加し、上洛作戦の際には先鋒を任されています。そして、それまでの活躍から柴田勝家(しばたかついえ)や豊臣秀吉などとともに、近江国に所領を与えられていますが、浅井・朝倉連合軍との戦いで、可成は坂本の地で戦死します。
家督を相続した兄長可も、長島一向一揆攻めや長篠の戦いなど、織田家の主要な戦に参加しています。そして、1582年の甲州征伐では先鋒として参加し、多くの武功を挙げ、信濃国川中島20万石を拝領しています。しかし、本能寺の変による不安定化を予想し、信濃国を放棄し旧領へ帰還しています。
その後、秀吉方として小牧長久手の戦いにも参加し活躍しますが、徳川軍の奇襲を受けて岳父池田恒興(いけだつねおき)とともに戦死します。
本能寺の変の際に、森蘭丸こと兄成利たちが死去していたため、六男であった忠政が美濃国金山7万石を継承することになります。
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