信長から信頼されながら「疑念」により討たれた津田信澄
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第67回
■信長から厚く信頼されていた甥の津田信澄への「疑念」

滋賀県高島市勝野にある大溝城跡に立つ、天守台の遺構。大溝城は津田信澄が築城し、琵琶湖から水路で通じた内湖(乙女ヶ池)と、川と堀を要害とした水城であることから、「鴻溝(こうこう)城」とも呼ばれた。
津田信澄(つだのぶずみ)は、信長の甥でありながら、本能寺の変による混乱の中で織田信孝(おだのぶたか)たちによって、謀反人として討たれたエピソードで知られています。
一門衆の序列では信忠(のぶただ)、信雄(のぶかつ)に次いで、信包(のぶかね)、信孝に準ずる地位を与えられていました。越前一向一揆征伐を皮切りに、石山本願寺攻めや伊賀攻めなど多くの戦に従軍し、また奉行として支配地の管理を担い、要人の接待を任されるなど、信長の信任は厚かったようです。
信長に重用されていた信澄が、本能寺の変の混乱の中で討たれたのは「疑念」を抱かれる要因が複数あったからだと思われます。
■「疑念」とは?
「疑念」とは辞書等によると「事実とされていることや行為、動機、意思決定に対して抱く不確かさや疑惑、確実さの欠如」とされています。「疑惑」とほぼ同じ意味とされていますが、「疑惑」はすでに違反や不正が行われている事を疑う場合に使われます。
一方で「疑念」は、まだ計画段階の事や、これから準備が進められるであろう事を疑う場合に使われます。信澄に対しては、本能寺の変への関わりなどの証拠はなかったものの、四国征伐に関わった諸将の中から「疑念」を持たれてしまったようです。
■津田信澄の事績
信澄の織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)は、守護代の清州織田家の家臣筋で、尾張の数ある勢力の一つという立場でした。信澄は織田信秀の三男信勝(信行)の嫡子として、尾張国にて生まれており、信長の甥にあたります。
信澄の初陣は1575年の越前一向一揆征伐と言われており、この戦において数百の一揆勢を斬る活躍をしたと言われています。津田姓を名乗るようになったのはこの前後とされています。
その後、公家の吉田兼見(よしだかねみ)の取次を行うなど、信長の側近のような役割も努めるようになります。近江国の高島郡を所領として、明智光秀の協力を得て大溝城を築きました。石山本願寺の明け渡しに関わった際には、重要な職務を任されていたのか、宣教師たちから「大坂の司令官」と称されています。
信澄は、織田家中では信忠たち子息に次ぐ、有力な一門衆として扱われており、1581年の京都御馬揃えでは信忠80騎、信雄30騎に続いて、伯父信包と信孝と並んで10騎を率いて参加しています。
安土城の建設においても、総普請奉行の丹羽長秀(にわながひで)とともに指揮を任されるなど、信長からは非常に厚い信頼を得ています。
1582年の四国征伐においても主将信孝を支える副将として、丹羽長秀や蜂谷頼隆などの重臣とともに遠征軍に加わっていました。
しかし、突如として本能寺の変が起こり、信長が斃(たお)されると、信長からの信頼が厚かった信澄に対して「疑念」が生じます。