盛岡藩の基礎を作った南部信直の「堅実」さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第65回
■東北の梟雄を相手に「堅実」に戦った南部信直

現在の盛岡城跡公園(岩手県盛岡市内丸)に残る石垣。盛岡城の石垣は、すべて周辺で採掘された花崗岩によって築かれている。また三ノ丸では、近年修復工事が進められており、令和6年9月に石の積み上げが完了している。
南部信直(なんぶのぶなお)は、東北地方の梟雄と言われる伊達政宗(だてまさむね)や最上義光(もがみよしあき)、津軽為信(つがるためのぶ)たちと比べると、支配領域の大きさの割に、非常に印象の薄い戦国武将です。
しかし、信直は南部分家の石川家から宗家の後継者の地位を得ると、陸奥国(むつのくに)での勢力の拡大を図り、幕末まで続く盛岡藩10万石の基礎を作りあげた戦国大名です。小田原征伐が始まる以前より、豊臣政権との関係性の構築を始めるなど、外交面においても先見の明を示しています。
一方で、信直が一般的に知られていないのは、派手さを求めずに「堅実」に戦ったのが原因と思われます。
■「堅実」とは?
「堅実」とは辞書等によると「やり方や考え方などが手堅く確かなこと。また、防備などがしっかりしていて危なげのないさま」とされています。主に人柄について使われますが、「堅実な方法」など、物事に対しても使われることがあります。
戦いや争いにおいても、一か八かのような博打的な作戦を避けて、確実に負けない方策を取るイメージかと思います。信直も派手さはないものの、「堅実」に南部家の権力拡大を進めていきます。
■南部家の事績
南部家は甲斐源氏の流れを組み、現在の山梨県南球磨郡南部町を出自としています。南部光行(みつゆき)が、鎌倉幕府に従い戦った奥州合戦での報奨として、陸奥国糠部郡などを領したのが始まりと言われています。
二十三代当主の南部安信(やすのぶ)の時代に、弟の石川高信や南長義(みなみながよし)を伴い、津軽地方などを攻略して、勢力を大きく拡大したという説がありますが、資料不足のため不明な点が多いとされています。
後を継いだ南部晴政(はるまさ)の活躍により、青森県の下北半島から岩手県の中央部まで勢力を拡大させた事で、その版図は「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどだったようです。信直は一門の石川高信の庶長子として生まれますが、男子のいない晴政の婿養子となります。
その後、晴政に嫡子晴継(はるつぐ)が誕生したことで、信直は後継者の地位を退きますが、晴政と晴継が相次いで死去したため、九戸政実(くのへまさざね)の弟実親と南部宗家の家督を争います。
結果として、南部家中の支持を得た信直が家督を継ぎますが、その後も九戸家との対立は長く続きます。他方で、大浦為信こと津軽為信に石川城を攻め落とされ、津軽地方における南部家の影響力を失います。
1586年ごろからは重臣の北信愛(きたのぶちか)の進言で、豊臣政権との誼(よしみ)を通じるなど、他の東北諸侯と同様に、中央政権との関係性を利用した権力強化と勢力拡大を進めていきます。そして1588年には、名門の高水寺斯波家を滅ぼすなど着実に支配領域を広げています。
しかし、信直は「堅実」に進める傾向にあったため、他者に遅れを取る場合もありました。
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