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森蘭丸の弟森忠政が抱えていた「過激」さ

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第69回

■織田信長や石田三成に見せた「過激」な振る舞い

 

 蘭丸、力丸、坊丸という通称の3人の兄たちは、信長の小姓として寵愛を受けたといわれています。忠政もこの兄たちと共に、一時信長の小姓として仕えています。

 

 しかし、忠政は信長の面前で、ちょっかいをかけてきた同僚の頭を扇子で叩くという無礼を働いてしまいます。この行為を信長に咎められ、一人だけ実家に戻されています。

 

 ただし、その結果、本能寺の変に巻き込まれず、忠政は助かることになりました。そして、次兄長可が小牧長久手の戦いで亡くなると、森家の家督と金山の領地を継承します。

 

 秀吉の死後には、川中島へ加増・転封されていますが、この時、家康に対して「秀吉公が存命中に、兄の遺領ともいえる信濃国川中島を拝領するという約束があったので、それを履行してください」と訴えたと言われています。

 

 関ヶ原の戦いにおいては、忠政は西軍への参加の談判に来た石田三成に対して、豊臣政権への批判とも取れる言動を繰り返して断っています。これを不快に感じた三成は、真田昌幸(さなだまさゆき)への書状の中で「忠政は秀頼様から領地を騙し取った」として非難しています。

 

 忠政は相手の身分が上でもかまわず、直情的な言動をとる一面があったようです。

 

■森家中にも浸透する「過激」な行動

 

 忠政は川中島への入領の際に、兄に反旗を翻した高坂一族を探し出し、ことごとく処刑しています。さらに、強引な検地により一揆が起きた際には、これを武力で鎮圧し、捕縛した600人以上の領民を処刑しています。

 

 1603年の美作国津山18万石への転封の際にも、国人一揆が起きています。調略を駆使して一揆を瓦解させると、ここでも検地による高直しを図っています。ただしこれは後に断念しています。

 

 また、津山城の築城について、対立した重臣井戸宇右衛門とその一族を滅ぼしています。この事件を憂慮した、筆頭家老の林一族は出奔(しゅっぽん)してしまいます。

 

 その後も筆頭家老が、他の家老二人を殺害するという大きな事件が起こり、激怒した忠政は当該の家老三人の領地を召し上げています。そのため、藩上層部が人材不足になり、旗本の叔父森可政(よしまさ)を招いて家老に据えています。

 

 1633年には、嫡子忠広(ただひろ)が厳しい軟禁生活の中で早世しています。これは監視役の家臣が忠政の命を意識しすぎたためといわれており、忠政はこの家臣を追放処分にしています。

 

 その結果、家督継承の問題が生まれ、外孫の関家継を養子に迎えなければならなくなっています。

 

 忠政だけでなく家臣たちの「過激」さも影響し、森家は安定しない状態がしばらく続きました。

 

■「過激」な振る舞いによる利益と不利益

 

 兄弟間の影響という視点で見てみると、忠政の「過激」な言動や行動は、「鬼武蔵」と敵に恐れられる一方で、命令や軍規に背くことも多かった兄長可を意識していたのかもしれません。その結果か、領民だけでなく家臣間での騒動も多く不安定な状態が続いてしまいます。

 

 現代でも、「過激」な言動や行動によって、一時的な成果やリーダーシップが見られたものの、その後に混乱の要因になることが多々あります。

 

 もし、家中が安定していれば、森家も国持大名として維新を迎えられたのかもしれません。

 

 森家はその後、5代藩主の衆利が発狂し改易となっています。ただ、忠政の功績が認められて備中国西江原2万石で再興され、後に忠臣蔵で有名な播磨国赤穂へ転封されて明治まで続きます。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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