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家康たちが利用した小早川秀秋の希少な「価値」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第68回

■小早川秀秋が持っていた「価値」の希少性

関ケ原の戦いで、松尾山(岐阜県不破郡関ケ原町)に小早川秀秋が設けた陣跡。眼下には関ケ原古戦場の絶景が広がる。

 小早川秀秋(こばやかわひであき)は、豊臣家の一門衆でありながら関ケ原の戦いで西軍から寝返り、東軍の勝利を決定づけたため、裏切り者というイメージが強い武将です。

 

 秀秋は幼少のころから、北政所(きたのまんどころ)の元で養育され、秀吉の養子として豊臣家の後継者となりうる貴重な存在でしたが、秀頼の誕生により小早川家の養子となります。その後、秀吉の一門衆が早世していく中で、減転封されながらも、最終的には筑前国(ちくぜんのくに)などを領して、五大老の宇喜多家に準ずるほどの軍事力を有する存在となります。

 

 秀秋は関ケ原の戦いの両軍から必要とされるほどの「価値」を有する存在でした。

 

■「価値」とは?

 

「価値」とは辞書等によると「ある事物や行動がどれだけ役に立つかを示す度合いや重要性を表すこと」とされています。また、「価値」は単なる物理的な属性ではなく、人間の欲求や期待と密接に関連していると言われています。

 

 そのため、環境の変化や時間の経過によって、同じものであっても、その「価値」は大きく変動します。秀秋が持つ「価値」も、世情の影響を受けて変動していきます。

 

■小早川秀秋の事績

 

 秀秋は、最終的に小早川を名乗っていますが、後の高台院である北政所と同じ杉原家を出自としています。杉原家は、尾張国朝日村を本貫とするようですが、詳細は不明です。

 

 父家定(いえさだ)は、妹おね(後の北政所)が秀吉の妻となったことから、その家臣として仕えるようになります。その際に、苗字を木下に変えたとされています。秀秋は、この家定の五男にあたり、生まれてまもなく秀吉の養子として引き取られています。

 

 そして、有力な後継者候補として育てられ、1589年に7歳で元服すると丹波国亀山10万石の領主となっています。1592年には中納言となり、その後秀頼(ひでより)の誕生により、小早川隆景(たかかげ)の養子となります。

 

 秀次(ひでつぐ)事件での関与を疑われ、一度は改易されますが、隆景の隠居により筑前国30万石を継承して大名として復帰します。

 

 1597年の慶長の役では、前回の遠征軍の総大将だった宇喜多秀家(うきたひでいえ)に代わり、秀秋が総大将として遠征軍を率いています。しかし、翌年、理由は不明ながら、日本に呼び戻されると、越前国へ減転封されてしまいます。この時、15万石にまで減らされたと言われています。

 

 ただ、秀吉死後、その遺言により筑前国に再封されたことで、再び、相当規模の軍事力を有する存在となります。秀秋は政治および軍事の両面において、高い「価値」を持つようになりました。

次のページ■豊臣家の後継者としての「価値」

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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