家康たちが利用した小早川秀秋の希少な「価値」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第68回
■豊臣家の後継者としての希少な「価値」
秀秋は北政所の甥であり、養子として幼い頃から手元で養育されていました。有力な豊臣家の後継者候補の一人でもあり、豪姫(ごうひめ)とともに秀吉の家族と認識されていたようです。後陽成(ごようぜい)天皇が、聚楽第(じゅらくてい)へ行幸する際に、諸侯によって起請文が出されています。その宛先は秀秋となっています。
秀秋は7歳で元服すると、丹波国亀山城を領し、侍従に任官しています。そのため、幼少のころから諸侯の接待を受けるようになり、酒に溺れるようになったと言われています。翌年の諸侯による秀吉への起請文の宛名でも秀秋となっていたように、まだこの時点では後継者として有力視されていました。
1591年に豊臣秀次が関白となり、秀秋は豊臣政権を継承することはなくなりましたが、秀吉の養子という立場は変わらなかったようです。
しかし、秀吉に嫡子秀頼が誕生すると、毛利家への養子縁組の話が持ち上がります。これを、隆景が進んで引き取る形で、秀秋は豊臣家を離れて小早川家の家督継承者となります。
秀秋の「価値」は、これまでの後継者候補から、豊臣一門衆の一大名へと変わりますが、「秀吉と北政所に養育された」という希少性は維持しています。
■政治的にも軍事的にも高まっていく「価値」
秀秋が小早川家の養子となったころを境にして、もともと少なかった豊臣家の一門衆はさらに数が減っていました。
1595年に、秀吉の弟秀長(ひでなが)の跡を継いでいた豊臣秀保(ひでやす)が亡くなり、大和大納言家は廃絶となります。同年には、秀次が謀反(むほん)の疑いをかけられて自死し、一族郎党はことごとく処刑され、豊臣家の男子は秀吉と秀頼を残すのみとなります。
秀秋も秀次事件への連座で改易された事で、政治力を大きく削がれたものの、成人している一門衆という希少性は一層際立つ事になります。
先述のように、慶長の役では、秀吉の名代として遠征軍の総大将に選ばれて渡海しています。文禄の役では一門衆に準ずる宇喜多秀家が努めていた点からも、豊臣政権における秀秋の政治的な「価値」の高さが分かります。
加えて、国持大名として1万人を超える軍勢を動員できる国力も、秀秋の希少性を高めていました。
そのため、関ケ原の戦いでは秀秋が有する「価値」を巡って、西軍と東軍の両派による調略が激化します。実際に、秀秋の去就は西軍敗北のきっかけとなり、東軍は豊臣一門の支持を得たことで、その正当性を強化するという結果に繋がりました。
秀秋は、戦後に秀家の旧領だった備前国岡山55万石を領し、かつての五大老並みの存在感を持つようになります。
秀秋は1602年に早世し、小早川家は取り潰しとなり、その希少「価値」は霧散しました。そして、関ケ原での裏切りという悪評だけが残り、後世での「価値」を下げることになりました。
■「価値」を有することの怖さ
秀秋は豊臣家の親類であり、毛利輝元(もうりてるもと)や上杉景勝(うえすぎかげかつ)と同じ中納言という高い官位も持っていました。もし宇喜多秀家ほどの石高があれば、大老の一人として扱われていてもおかしくないほどの存在です。
しかし、秀秋の「価値」を利用しようとする周囲の思惑に振り回され続け、最終的には裏切り者として名を残すことになりました。
現代でも、個人が有する「価値」が組織内外に利用され、最悪な結果に巻き込まれるケースが多々あります。
もし秀秋の寿命があと10数年長く、小早川家も存続できていれば、大坂の陣に一定の影響を与えられたかもしれません。
ちなみに、秀秋の家老には、春日局(かすがのつぼね)の夫稲葉正成(いなばまさなり)がおり、東軍への寝返りを主導した一人と言われています。
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