信長に「勇猛」さを愛された河尻秀隆
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第71回
■信長に厚く信頼された「勇猛」な最古参
秀隆は僅か16歳で敵の今川方の足軽大将の首級を上げるという「勇猛」さを見せています。そして、信長に敵対を続けてきた弟信勝(のぶかつ)を清州城にて討ち取る大役を任されています。
桶狭間の戦いにも加わっており、一説には今川義元の首級を挙げた一人とも言われています。斎藤家との戦いでは、猿啄城(さるばみじょう)の本丸一番乗りを果たすなど、「勇猛」さを示す武功を挙げています。以降も数々の戦に加わり、比叡山焼き討ちでは西明寺を焼き払い、若江城の戦いでは三好義継(みよしよしつぐ)を攻め滅ぼしています。
秀隆は軍事面で活躍を見せる一方で、信長の側近衆として外部との取次役など、官吏としての仕事も任されています。
その「勇猛」さとこれまでの経験を高く評価された秀隆は、信忠軍団の補佐役を任されています。長篠の戦いでは信忠に従い参加し、代理で信忠軍の指揮を執り勝利に貢献しています。
その後も岩村城にて、未だ警戒すべき存在である武田家の抑え役を任されています。
■暗躍する徳川家康に立ち向かった「勇猛」さ
1582年に信忠を総大将とした甲州征伐が始まると、秀隆は副将格として本体を率いながら、森長可(もりながよし)など若い武将たちの先走りを抑える役目を担っています。
信長から直接、遠征軍の統制を命じられており、実質的には秀隆と滝川一益(たきかわかずます)が司令官だったとも言われています。高遠城を1日で陥落させる活躍を見せており、その後、滝川一益とともに、武田勝頼父子を討ち取ったとも言われています。
戦後はその功績を称えられ、甲斐国と信濃国諏訪郡の合計22万石を与えられています。
統治が難しいと思われる武田家の本領を任されている事からも、信長からの信頼の厚さが伺えます。しかし、本能寺の変により状況が一変します。信長の死により、旧武田領は大混乱となり、武田家遺臣による国人一揆が続発していきます。
この混乱を領土拡大の好機とみた家康は、本多信俊たちを派遣し、旧武田領を奪い取るために暗躍を始めます。信濃国に領地を与えられていた森長可たちは、速やかにこれを放棄して織田領へ撤退していきました。
一方で、秀隆は甲斐に踏みとどまり織田領の維持に努めますが、家康による一揆衆への調略は激しさを増していきます。
孤立無援となる中、織田領への撤退を勧めてきた本多信俊を殺害して、家康に対して戦意を示しています。しかし、その数日後に、家康側に調略された一揆衆からの攻撃を受け、秀隆は討ち取られてしまいます。
■身を亡ぼす危険性もある「勇猛」さ
秀隆は織田家の最古参の家臣であり、その「勇猛」さが高く評価されていたと思われ、戦国最強とも言われる武田家の抑え役や信忠軍の副将を任されていました。
しかし、本能寺の変で同僚たちが撤退していく中で、家康の侵略に立ち向かい、織田領の維持を図ろうと果敢に挑み滅びてしまいます。
現代でも「勇猛」さが評価され、大任を任される場合があり、一方でそれが原因で身を滅ぼしてしまう事例が多々あります。
もし、秀隆が甲斐を即座に放棄し撤退に成功していれば、その後の織田家中での勢力争いの結果も変わっていたのかもしれません。
秀隆の子鎮行(しげゆき)は関ヶ原の戦いで西軍について浪人したようですが、後に徳川幕府から召し出されて旗本として家名を存続させています。
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