秀吉に改易された宇都宮国綱が抱えていた「内憂」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第70回
■「内憂」に悩まされた宇都宮国綱

栃木県芳賀郡益子町には、宇都宮家一族が眠る墓所である尾羽寺がある。国綱を含む、33代の石塔や五輪塔が立つ。
宇都宮国綱(うつのみやくにつな)は、鎌倉期から続く名門を率いながらも、周辺勢力との勢力争いに敗れ、没落していった戦国武将というイメージが強いかと思われます。
しかし、北条家による圧力を受けて弱体化していく中、縁戚関係にある佐竹家や結城(ゆうき)家と結び徹底抗戦を続けています。織田政権や豊臣政権など中央政権の力を借り、北条家からの侵略を凌いだものの、最終的には改易されてしまいます。
これには、宇都宮家が抱えていた「内憂(ないゆう)」が大きく関係していると思われます。
■「内憂」とは?
「内憂」とは辞書等によると「国やある組織内部に存在する憂うべき事態。また、それによる心配。内患」とされています。
よく「内憂外患(ないゆうがいかん)」という熟語で使われ、「国内での心配事と、外国から受ける災難のこと。転じて、組織の内部で起きた心配事と、外部からもたらされる心配事や災難のこと」という意味で扱われます。
戦国時代においては、外部の勢力からの攻撃で窮地に陥る事も多いですが、内部である身内が原因で窮地に陥る事も多々あります。宇都宮家も「内憂」によって苦しい状況に追い込まれていました。
■宇都宮家の事績
宇都宮家は藤原北家の子孫を出自と称し、前九年の役での功績により下野国(しもつけのくに)の宇都宮の別当職に任じられたことが始まりとされています。源頼朝から関東一の弓取りと呼ばれる武門の家で、元寇(げんこう)の時には北条時宗(ほうじょうときむね)の命の元で、幕府軍の総大将として出陣しています。
室町時代には、小山家の没落とともに下野国の守護となっています。その後しばらく低迷期が続いたものの、中興の祖と呼ばれる宇都宮成綱(しげつな)の時代に、武力と外交で北関東での勢力拡大に成功しています。
しかし、再び家中での混乱が続き、影響力は落ちますが、婚姻関係にあった佐竹家の支援を受けて、宇都宮城を中心に一定の勢力を維持しています。
国綱の時代になると、強勢(きょうせい)な北条家の圧力により、壬生(みぶ)家、皆川家などが寝返り、本拠であった宇都宮城から多気城(たげじょう)へと移るほど不利な状況になっています。
しかし、1590年の豊臣政権による小田原征伐に参陣し、秀吉の力を借りて下野国宇都宮18万石の朱印状を得る事に成功します。こうして中央政権の強大な力を利用しつつ、北条家による「外患」を防ぎきりましたが、今度は家中に抱えていた「内憂」に悩まされることになります。