秀吉に改易された宇都宮国綱が抱えていた「内憂」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第70回
■豊臣政権との関係を悪化させた「内憂」
宇都宮家は、室町時代には関東管領上杉朝宗(うえすぎともむね)によって定められた関東八屋形に入る名門です。佐竹家や結城家を含めた、八家の間で婚姻関係を結び、勢力の維持に努めていました。
特に佐竹家とは、国綱の母が佐竹義重(さたけよししげ)の妹、妻が義重の養女のため、深い関係にありました。そのため北条家との争いにおいて、佐竹家からの支援を受けながら戦っています。また、結城家とも関係が深く、祖母は結城家から来ており、弟朝勝(ともかつ)は結城晴朝(はるとも)の養子になっています。国綱は、豊臣政権とも縁戚による関係性の強化を図ろうとしたと言われています。
一足先に結城晴朝は、朝勝との縁組を解消して、家康の次男で秀吉の養子である秀康を、後継者として受け入れ、豊臣、徳川両家との関係を強めています。
後嗣がいなかった国綱も、秀吉の親類大名でもある浅野長政(あさのながまさ)の三男長重(ながしげ)を養子に迎え、御家安泰を図ろうとしたと言われています。
しかし、実弟の芳賀高武が反対し、国綱の側近を殺害するという騒動を起こし、それを理由に改易されたと一般的にはいわれています。また、芳賀家が絡んだ家中の権力闘争による混乱を原因とする説もあるように、内部に問題を抱えていたようです。ただし、宇都宮という地域が北関東の要衝の地であるため、理由を付けて取り上げられたとする説もあります。