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関ヶ原後に唯一旧領を回復した立花宗茂の「義理」堅さ

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第75回

■二人の父から引き継いだ立花宗茂の「義理」堅さ

立花宗茂が拠点とした、柳川城の本丸跡(福岡県柳川市本城町)。関ヶ原の戦いで宗茂が改易された後に入城した田中吉政によって、天守閣を備えた近世城郭が築かれ、田中家の断絶後に宗茂が柳川藩主として返り咲いた。

 立花宗茂(たちばなむねしげ)は、大友家の重臣である父高橋紹運(たかはしじょううん)と、軍神と称された義父立花道雪(どうせつ)の二人から薫陶を受けた「武勇の将」というイメージが強いと思います。

 

 その武勇と心構えは高く評価され、豊臣秀吉によって独立した大名として取り立てられました。関ヶ原の戦いで改易されたものの、徳川家康によって段階的に大名として復活する機会を得ています。

 

 他の武将からの信望も厚く、浪人中は加藤清正(かとうきよまさ)などから支援を受けていました。また、領民からも強く慕われていたという逸話が残されています。

 

 その一方で、家臣たちは宗茂の「義理」堅さに苦労することも多かったようです。

 

「義理」とは?

 

 辞書によると、「義理」とは「社会において、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと」や「血縁以外の者が血縁と同じ関係を結ぶこと。また、その関係」とあります。

 

「義理」堅さとは、自分が守るべき「義理」を大切に、おろそかにせず、誠実に果たそうとする態度や性格を指します。

 

 宗茂は恩を受けた相手への「義理」堅さで評価される一方で、家臣たちはその姿勢に翻弄されることになります。

 

立花家の事績

 

 立花家は、豊後の守護大名である大友家の分流にあたり、立花城を居城として家中では重きをなした家柄でした。しかし、大友宗麟(おおともそうりん)の時代に謀反を起こし一旦滅ぼされてしまいます。

 

 その後、立花道雪(戸次鑑連/べっきあきつら)が立花城に配されると、その名跡を継ぎ立花道雪と名乗ります。道雪は文武に優れた武将で、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)など周辺勢力からも高く評価されています。軍神と賞された道雪でしたが、男子に恵まれなかったため、同僚の高橋紹運の嫡子である統虎(後の宗茂)を娘婿に迎えます。

 

 宗茂の実父である紹運も、大友家の重臣として、数々の戦で武功を挙げていました。宗茂には、義父と実父に厳しく育てられた逸話が多数残されています。しかし、九州北部に侵攻してきた島津家との戦いの中で、義父道雪は病死し、実父紹運も戦死してしまいます。

 

 豊臣政権による九州征伐では、先鋒として遠征軍に参加します。島津家との戦いで数多くの武功を挙げたことが高く評価され、宗茂は秀吉の直臣となり、筑後国柳川8万石を与えられました。最終的には約13万石まで加増されています。その後の肥後国人一揆でも活躍し、その立ち居振る舞いが軍監の浅野長政などから高く賞賛されています。

 

 

 文禄の役では小早川隆景(こばやかわたかかげ)の六番隊に加えられて出陣し、その活躍ぶりを隆景からも高く評価されました。続く慶長の役にも参加し、秀吉死後の撤退戦において小西隊の救出を成功させるなどの活躍をしています。

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過去記事

森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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