関ヶ原後に唯一旧領を回復した立花宗茂の「義理」堅さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第75回
■恩義に対する「義理」堅さ
関ヶ原の戦いにおいて、大恩ある豊臣家への奉公として宗茂は西軍につきました。宗茂を高く評価していた東軍諸将からは、西軍への参加を見送るように勧められていたようですが、それを断っています。
この時、家康からも莫大な恩賞でもって誘われていたという逸話もあります。また、家臣たちからも東軍への参加を進言されていたとも言われています。
しかし、宗茂は秀吉から受けた恩義に報いるためとして、立花家の石高以上の最大兵力を用意し、大津城攻めに参加しました。その戦いぶりは京極家の家臣からも称えられています。
本戦で西軍が敗れると、宗茂は毛利輝元(もうりてるもと)には拒否されますが、大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張ています。
豊臣家へ見せた「義理」固さは、領国へ戻る際に同船していた島津義弘(しまづよしひろ)にも向けられています。家臣たちが仇でもある島津家を討とうと進言しますが、宗茂は「弱っているところを襲うのは武家として相応しくない」と宥めて、逆に義弘たちとの友好関係を強めています。
居城の柳川城に戻ると、東軍に寝返った鍋島家などと戦闘となります。結果として、この江上・八院の戦いで、立花統次(むねつぐ)や新田鎮実(にったしげざね)など家臣の多くが戦死し、重臣の小野鎮幸(おのしげゆき)も重傷を負い、戦後には改易となります。
■大名への復帰と家臣たちの苦労
宗茂が浪人となると、家臣たちは大名復帰を期待しながら、その多くは肥後国の加藤清正や、筑前国の黒田長政(くろだながまさ)のもとで過ごすことになりました。
自身の生活や宗茂の支援のために、加藤家や黒田家に仕官する者も増えていきました。一部の家臣たちは、九州を離れて、幕府への出仕の機会を待つ宗茂と、先の見えない状況を共に過ごしています。
1604年ごろに宗茂は、将軍の親衛隊と言われる書院番頭5千石で再びの出仕が叶っています。そして、その2年後には奥州棚倉で念願の大名に復帰し、1610年ごろには3万石にまで回復しています。
この機会に加藤家から立花家へ転仕しようとする旧家臣が多くいたようですが、宗茂は清正への旧恩を考えて、できるだけ加藤家に留まるように促しています。家臣に与える給地の問題もあるものの、宗茂の「義理」固さが現われています。
「義理」を重視する宗茂にとって、慕ってくれる家臣団の心情を考えるといたたまれない状況だったと思われます。
1620年に旧領筑後国柳川10万9千石に復帰すると、すでに清正が亡くなっていたこともあり、旧臣の復帰を積極的に開始していきます。ただし、20年の間に家臣たちの世代交代も進んでいましたが、その子や孫たちで希望する者たちを呼び戻しています。その結果、立花家は浪人時代から付き従った者、奥州で採用した者、他家からの出戻り組に加えて、九州での新規採用組という構成になり、一定の配慮が必要な体制になってしまいました。
■「義理」堅さが生む苦労
宗茂は、その誠実な人間性を多くの同僚からも認められており、改易になった際は、清正だけでなく前田利長(まえだとしなが)からも仕官を求められたと言われています。再び仕えた後、2代将軍秀忠や3代将軍家光からも高い信頼を得ています。
しかし、その人間性が外部から評価される一方で、立花家の者たちは苦労することも多かったようです。
現代でも、経営者の「義理」堅さによって業績が悪化した結果、従業員たちが減俸や離職を強いられることはよくあります。
もし、宗茂が関ヶ原の戦いで東軍についていれば、家臣たちの苦労も少なく済んだのかもしれません。
ちなみに、宗茂は道雪の娘である妻の誾千代が亡くなるまで側室を娶ることはなかったようで、死後は菩提寺を建立し、高僧を招いて弔っています。このあたりにも、宗茂の「義理」堅さが感じられます。
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