毛利秀元の「気概」が生んだ家中対立
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第80回
■藩政におけるリーダーとしての「気概」
関ヶ原の戦いの後、吉川家を除く若い一門衆の面倒を見る事で、秀元は毛利家のリーダーのようなポジションを得ていきます。1613年には家康の養女を継室に迎えるなど、幕府側にとっても秀元は毛利家の重要人物と見なされていたようです。
一方で、関ヶ原の戦いで東軍と内通していた吉川広家や、家老の福原広俊たちとは不仲であったようです。大坂の陣において、秀元が輝元と図って、家臣の内藤元盛を大坂城に入城させたことで対立が深刻化しています。
その前後に、広家や広俊が藩政の表舞台から退いたことで、秀元が藩政を主導することになります。秀元は主に幕府との交渉役を担当したようです。1623年には、毛利家の藩政を総攬(そうらん)する立場に任じられています。
秀元は将軍や幕閣との関係性を活かしつつ、検地による高直しを実現させるなど、毛利家の地位向上に努めています。加えて、直轄領の拡大や新田開発の成功により、毛利家の財政の立て直しに一定の成果を出しています。
しかし、秀元主導による藩政は、反対派からは専横と非難されることが増えていきます。
■藩主の弟を巻き込んだ独立騒動
徳川家や幕閣との繋がりの強さもあり、秀元の影響力は藩主秀就を凌ぐようになっていきました。
検地の際には、秀元と懇意の者を豊かな土地に配置換えするなど優遇し、藩内における自派の勢力拡大を行ったと言われています。一方で、対立関係にあった福原家を荒地に振り替えています。
1630年ごろからは、藩主秀就との関係も悪化し、後見役から外れて藩政から距離を置くようになります。
そして秀元は、縁戚関係にある幕閣永井尚政(ながいなおまさ)に働きかけ、毛利家からの独立を計画します。さらに、藩主の弟で娘婿にあたる就隆を誘って、三代将軍家光(いえみつ)から朱印状を交付されるように画策します。
しかし、この独立騒動は秀就によって阻止されてしまい、最終的には沙汰止(さたや)みとなります。
その後も、秀元は秀就の指示を拒否するなど反抗的な姿勢を取り続けますが、幕府の仲裁を受けて、ようやく和解に応じています。
■「気概」が生み出す組織内の軋轢
秀元は小早川隆景(こばやかわたかかげ)や吉川元春の両川のように、江戸時代の毛利家の外交および内政を主導して、長州藩の基礎を作った一人だと言えます。
しかし、その「気概」の強さは、藩主や同僚との関係悪化を招き、幕府の仲裁を受けるほどの混乱を生んでしまいました。
現代でも、「気概」を持って組織の舵取りをこなすものの、一方で組織を揺るがすほどの衝突や不和を生むことは多々あります。
もし秀元が貴公子然とした凡庸な武将であれば、毛利家を混乱させることもなかったかもしれません。
ただし、秀元の「気概」の強さは、三代将軍家光の好むところだったようで、御伽衆(おとぎしゅう)に選ばれています。そのおかげで秀就からの処罰を免れたと言われています。
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