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家康が高く評価した藤田信吉の「交渉力」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第81回

■「交渉力」を活かした信吉の活躍

 

 信吉は上杉家に仕えると、数々の戦で活躍を見せます。1583年の放生橋の戦いにおける撤退戦にて景勝の窮地を救ったことで、上杉家の重臣に加えられます。これには、景勝の妻が勝頼の妹で、竜宝の娘を妻にしていた信吉とは親類関係にあったことも関係していると言われています。

 

 その後、敵対していた新発田家が支配する新潟城・沼垂城の代官を寝返らせ、奪取に成功しています。さらに、新発田城攻略戦では、新発田重家を負傷させるなど活躍しています。

 

 小田原征伐では上杉家が配された北方隊に従軍し、難攻と言われた松井田城を攻略するために、周辺の城を調略し奪取しています。城代の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)との降伏交渉も取り次いでいます。

 

 そして、因縁のある氏邦が守る鉢形城(はちがたじょう)を無血開城させる事にも成功しています。この時、信吉は氏邦の助命嘆願を申し出たという説があります。

 

■家康からも高く評価された「交渉力」

 

 信吉は上杉家と徳川家の間で起きた小競り合いでも、その「交渉力」を発揮して沈静化させています。

 

 1592年に秀吉より肥前名護屋城への参集を命じられた際、安芸国宮島での宿泊施設の確保において、上杉家の後方にいた徳川家と争いが起きました。

 

 徳川家の手配係の者が、上杉家を出し抜くように、宮島での宿泊地を先に抑えてしまったため、両家の面子を掛けた騒動になりつつありました。

 

 信吉は上杉家を次の宿地に急がせるよう家中を説得し、騒動の拡大を防ぎました。

 

 家康はこの件から信吉を高く評価するようになり、宮島の騒動の件でお礼の贈り物をしています。その後は、上杉家との交渉窓口として期待されたと言われています。

 

 秀吉死後、上方で上杉家謀反の風聞が立つと、景勝の代理として上洛していた信吉が、徳川家との間に入って沈静化に奔走します。信吉は景勝に弁明のための上洛を求めます。

 

 しかし、家康に高く評価された「交渉力」が、上杉家中で疑念を生む事になりました。

 

 反家康に立つ直江兼続(なおえかねつぐ)は「信吉は家康と内通している」と景勝に讒言し、信吉たち恭順派を粛正するために追手を放ちます。

 

 信吉は上杉家を出奔せざるを得なくなり、家康に誘われて仕える事になります。

 

■「交渉力」が生み出す成果と疑念

 

 信吉は上杉家の元で数々の戦に参加し、武力だけでなく「交渉力」による調略や外交で功績を挙げてきました。家康も評価していた信吉の「交渉力」でしたが、最後は同僚である兼続たちから危険視され、上杉家を出奔することになっています。

 

 現代でも、秀でた「交渉力」によって、外交交渉に成功する一方で、組織の内部調整に失敗し、反発や混乱を生むことが多々あります。

 

 もし信吉が上杉家内部の調整に成功していれば、慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)の結果も変わっていたかもしれません。

 

 ちなみに、大坂の陣での失態で藤田家は改易されたとの説がありますが、家康の尋問を受けて、信吉の弁明が通り、罪は不問になったとも言われており詳細は不明です。

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過去記事

森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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