×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

桓武天皇が並々ならぬ情熱を注いだ「平安京遷都」の謎

今月の歴史人 Part.3


平安京の前の都は「長岡京」であった。しかし長岡京はわずか10年で放棄され、平安京へ遷都されたのだが、その裏には様々な事情があったという。


 

■吉日を優先した長岡京遷都。慎重に計画された平安京遷都

 

平安京の大極殿。

 

 延暦13年(794)に長岡京から平安京へと遷都が行われた。桓武(かんむ)天皇は2度の遷都を行ったことになる。延暦3年に平城京から長岡京への遷都が行われたが、長岡京はわずか10年で棄都され、その後「萬代宮(よろづよのみや)」として平安京が維持されていく。

 

 なぜ、長岡京から平安京へ移ったのかという疑問を抱く人もまだ多い。その理由はいくつも考えられてきているが、根強く残っているのは、①早良(さわら)親王の怨霊説、②延暦11年の大洪水説、③長岡京造営の遅滞説であろう。①については、造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)の藤原種継(たねつぐ)が暗殺された事件への関与を疑われた早良親王が憤死し、延暦11年に皇太子・安殿(あて)親王が病になると早良親王の祟りと卜定(ぼくてい)されたというものである。しかし、これについては小林清『長岡京の新研究』(比叡書房、1975年)によって完全に否定されている。延暦8年に亡くなった桓武の母・高野新笠(たかのにいがさ)や翌延暦9年に亡くなった藤原乙牟婁(おとむろ)皇后は、早良親王の不幸を気にしていた可能性はあるが、嫌疑をかけた桓武にはそのような精神的な弱みはなかった。崇道(すどう)天皇の称号を早良に送ったのも延暦19年と平安遷都してから6年後のことである。②の大洪水は遷都の口実にはなったであろうが、真の理由ではないであろう。鴨川が何度氾濫しても平安京からは移動していないことからもわかる。③は本来、長岡京を永遠の都とするつもりがなければ、ある意味当然である。

 

 ではなぜ平安京に遷ったのであろうか。まず遷都といっても遷都地の平定がなければ遷都できない。しかも林陸朗が説くように遷都実行の延暦3年11月11日は甲子朔旦冬至に当たり、4617年に1度しか巡ってこないめでたい日であった(『長岡京の謎』新人物往来社、1973年)。平城京が杉山二郎『大仏以後』(学生社、1986年)が述べるように重金属公害によって侵されており住める環境ではなくなっていたことも重要である。新王朝の幕開けとして急いで平城京を脱し、甲子朔旦冬至に間に合わせて革令を目指したかったのであろう。そこに長岡京に住した秦氏が協力を申し出てきた。遷都地の住民の協力が得られたことが長岡京への遷都を決し、その後によき土地を選定すればよかったのである。

 

監修・文/中村修也

(『歴史人』2023年4月号「古代日本の都と遷都の謎」より)

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

歴史人2023年7月号

縄文と弥生

最新研究でここまでわかった! 解き明かされていく古代の歴史