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日本初の本格的な国造りの地はなぜ「飛鳥」の地だったのだろうか?

今月の歴史人 Part.1


古代日本には多数の「京」「宮」が存在した。多くの遷都を繰り返した結果である。そのなかでその始発点ともなった地が「飛鳥」である。なぜ飛鳥は古代日本の中心地になったのかをここでは紹介する。


 

■「飛鳥」とはどのエリアを指すのか?

 

現在の飛鳥宮跡
現在の研究では、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮の4つが時代順に営まれていたことが判明している。写真は飛鳥浄御原宮の復元遺構である石敷きの井戸。

 

 飛鳥(あすか)とは、奈良盆地の東南部を占める地名であり、おおよそ現在の明日香(あすか)村の飛鳥川流域の一帯に、大和三山(耳成山・畝傍山・天香久山)のあたりを含めた地域を指している。古代から渡来人が多く居住していたとされ、いくつかある飛鳥の地名由来のひとつに、朝鮮半島からの渡来者が安らかに住むことができた土地を「安宿(あすか)」と称したことによるという説があるほどである。

 

 飛鳥には、6世紀末から7世紀末にかけての約100年間、天皇の宮が多く置かれていた。具体的にいうならば、

 

・推古(すいこ)天皇…豊浦(とゆら)宮、小墾田(おはりだ)宮
・舒明(じょめい)天皇…岡本宮、田中宮、厩坂(うまやさか)宮
・皇極(こうぎょく)天皇…板蓋(いたぶき)宮
・斉明(さいめい)天皇…川原宮、後岡本(のちのおかもと)宮
・天武(てんむ)天皇…浄御原(きよみはら)宮

 

 などがそれである。これらの宮を総称して、飛鳥京跡とか飛鳥古京跡とかといっており、宮のある一帯を飛鳥京とよんでいる。『日本書紀』などでは倭京(わきょう)と記述されていたりもしている。また、壬申の乱の際には、荒田尾直赤麻呂(あらたおのあたいあかまろ)が「古京」の守りを進言し、忌部首子人(いんべのおびと)とともにその守備にあたっている。

 

 天武天皇の浄御原宮は、持統(じとう)天皇に継承されるが、持統天皇はのちに持統8年(694)にいたって、初の都城制を備えた藤原京へ遷都することになる。この間、宮が飛鳥を離れたのは、孝徳(こうとく)天皇のときの難波(なにわ)宮、天智・(弘文)の大津宮の約15年にすぎない。

 

■飛鳥に多くの宮が置かれた理由

 

飛鳥寺
聖徳太子が蘇我馬子の協力を得て推古4年(596)に建立。法興寺、元興寺など多くの別称を持つ。鎌倉時代の落雷により伽藍は焼失し、現在では安居院と飛鳥大仏が残る。

 

 飛鳥に長期間にわたって転々と宮が築かれた理由については、いくつかのことがいわれている。そのひとつは、防衛上の利点である。飛鳥は、大和三山や飛鳥川などが所在していて、軍事的に見て守りやすいのである。また、地形上では、風水上のこともいわれている。風水でいうと、北・東・西は山で囲まれ、北西から東南に向かって川が流れているのが吉とされる。これをたとえば、板蓋宮にあてはめると、北に天香久山、東に多武峰(とうのみね)、西に甘樫丘(あまかしのおか)をのぞみ、北西から東南に向かって飛鳥川が流れており、地形的に吉とされる。

 

 また、当時、大豪族であった蘇我氏の影響もいわれている。蘇我氏は、氏寺である飛鳥寺などが立つ飛鳥が拠点であり、そこに宮を造らせたというのである。この点については、単に蘇我氏のみならず、巨勢(こせ)氏、阿倍氏、大伴氏などの有力豪族や東漢(やまとのあや)氏といった渡来系氏族の拠点とも近い場所にあることから、諸豪族のバランスがとれた地であったとも指摘されている。

 

 さらに、交通の要地であったこともあげられている。飛鳥は、奈良盆地を南北に通る上ツ道・中ツ道・下ツ道といった古代における3つの大道に近い地である上に、盆地を東西に走る横大路にもさほど遠くなく東国や大陸への玄関口である難波へ行くのにも便利な立地にある。

 

 これらの点から、いずれかひとつの理由からではなく、いくつかの利便性がからみ合って飛鳥という地域に宮が造られ続けられたのであろう。

 

監修・文/瀧音能之

(『歴史人』2023年4月号「古代日本の都と遷都の謎」より)

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歴史人2023年4月号

古代の都と遷都の謎

「古代日本の都と遷都の謎」今号では古代日本の都が何度も遷都した理由について特集。今回は飛鳥時代から平安時代まで。飛鳥板蓋宮・近江大津宮・難波宮・藤原京・平城京・長岡京・平安京そして幻の都・福原京まで、謎多き古代の都の秘密に迫る。遷都の真意と政治的思惑、それによってどんな世がもたらされたのか? 「遷都」という視点から、古代日本史を解き明かしていく。