古代の家督相続条件は「5世まで」が常識だった?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #072
「応神(おうじん)天皇の5世の孫」だと主張して、即位の権利を裏付けた第26代継体(けいたい)天皇。古代の皇統や家督継承の条件になった「5世の孫」とは?
古代における皇統や家督継承の不文律

応神天皇5世の孫という不文律を背景に招聘された、継体大王の前方後円墳再現モデル。(著者撮影。高槻市今城塚古代歴史館展示)
「3代続いて初めて江戸っ子」ということばを聞いたことがありませんか? これは比較的新しいことばだと思いますが、古代に暮らした私たちの祖先は、代替わりと家督相続をどう考えていたのでしょうか?
古代の家督継承は兄弟相続が基本だったと思いますが、初代から5代目までが血統の系譜を継ぐことができるという意味の記述があります。
第26代継体天皇は、大后(おおきさき)も皇子(みこ)もいなかった武烈(ぶれつ)天皇の後を継いだ大王です。その時に、招聘してきた大伴金村(おおとものかなむら)は「応神天皇の5代目の孫である」として、皇統を継ぐ権利を保障しています。また平安時代の平将門は「桓武(かんむ)天皇5世の孫だ!」と自称して、皇位継承を主張しています。
このように、重大な皇統や家督継承の権利を主張するときに出てくる「5世の孫」について考えながら年表を見ていると面白いことに気付きました。
養老7年(723年)の格(きゃく)に「三世一身の法(さんぜいっしんのほう)」がありました。「格」とは修正法令のことで、社会状況の実態に応じて法令を改正した時に発布したものです。それによると、新たに灌漑(かんがい)設備も含めて農地を開墾(かいこん)した場合は3代まで、既存の灌漑地域に農地のみ開墾した場合はその身1代の農地私有を認めるというものです。
「当時、5世が不文律の重要な家督相続条件だったのに、なぜ3世なんだろう?」と私は感じました。この背景には、「良田百万町歩(ひゃくまんちょうぶ)の開墾計画」という国の政策が垣間見えます。

日本の原風景は、人口の増加と徐々に進められた田んぼの開墾によって作られた(著者撮影)。
奈良時代の当時は律令国家体制が整い、国家財政を富ませるためにも米の生産高を飛躍的に高める必要がありました。しかしながら、公地公民の原則を逸脱する開墾地の私有を公に認めることは難しく、本来は5世の財産相続が常識であるのは重々承知ながら、そこを値切って「3世」とした可能性が考えられるのです。
実際に、この三世一身の法で、わずかに開墾はされたようですが、不人気な法改正だったようです。施行から20年後の743年には「墾田永代私財令(こんでんえいたいしざいのれい)」が新たに発布されます。
三世一身の法は当然、当時の人々には受け入れられない強引な期限の値切り方だったのでしょう(笑)。しかしながら改正された「墾田永代私財法」にしても、「永代=5世まで」ということなのでしょうね。
5世の孫という原則が、皇位継承に限られていたのかどうかという問題はありますが、そんなことを考えていると、「日本列島にやって来た渡来人も5世を越えて6世になると、もう本国本家の血族ではなくなって、国人になったのではないか?」と考えてしまいます。
これは実は、当時の重要な常識だったのではないでしょうか?
そういった不文律の「5世相続権」を考慮しながら皇統譜を眺めたり、豪族の系図を眺めたりすると見え方が大きく変わってくると思います。そうすると、蘇我本宗家の馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の外交に対する考え方の違いが見えてきそうな気がするのですが、どうでしょうか。