大阪府・藤井寺市と羽曳野市に拡がる「古市古墳群」とは一体何だったのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #067
4世紀から5世紀の倭(わ)の五王の時代、大阪府内の平野部に造られた巨大前方後円墳の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が世界遺産に登録された。藤井寺市と羽曳野(はびきの)市に展開する古市古墳群とはどんなところなのかご存知だろうか? わが国を代表する古墳にはいったい誰が埋葬されているのだろうか?

津堂城山古墳で発見された組み合わせ式長持ち型石棺のレプリカと天井石展示。
撮影/柏木宏之
■応神天皇の実在性が感じられる?!巨大な古市古墳群
2019年(令和元年)7月にアゼルバイジャンで開催された世界遺産委員会で正式に世界遺産として登録されたのが「百舌鳥・古市古墳群」です。
一基の古墳が登録されたのではなく、現存する49基の古墳がまとめて登録されました。しかも同じ大阪府内ではあっても、堺市域と藤井寺市・羽曳野市域に残存する4世紀後半から5世紀後半に築造された古墳群がセットで登録されました。
それまで大阪府には一件も世界遺産が無かったので、大きなニュースになりました。
しかしながら、登録にはそれぞれの古墳の名称も登録しなければならず、堺市の大仙古墳(だいせんこふん)は「仁徳天皇陵古墳」として登録されました。これには大きな問題があります。
それは宮内庁の管理で自由な研究調査が禁止されている巨大古墳に、本当は誰が埋葬されているのかはさっぱりわからないことです。ですから考古学界では「大仙古墳」として周知されています。以前の社会科の教科書には「伝 仁徳天皇陵」と書かれていました。
被葬者がまちがいないと考えて良い古墳はありますが、そのほとんどは宮内庁が陵墓に指定していないからこそ調査されたものです。わが国に残されている古墳にいったい誰が埋葬されているのかは、ほんの一部を除いて全くわかっていないのです。

古市古墳群が造営される前に築造された津堂城山古墳墳丘。撮影/柏木宏之
それは藤井寺市と羽曳野市にまたがる古市古墳群にもいえます。わが国第2位の大きさを誇る誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は応神(おうじん)天皇陵だと宮内庁は指定していますが、まったくわからないのが現実です。
そもそも応神天皇という大王自体、どういう人だったのか謎が多くてよくわかりません。ただ日本の古代史にとって、非常に重要な大王であることはまちがい無いでしょうが、父親とされる仲哀(ちゅうあい)天皇、母親とされる神功皇后(じんぐうこうごう)共に実在性を感じさせない人たちなのです。そのうえ重臣の建内宿祢(たけのうちのすくね・たけしうちのすくね)に至っては、一人の人間としては実在性が全くありません。
とはいえ、彼らの時代の巨大前方後円墳は存在するのです。
応神天皇の後を継いだのが大仙古墳に眠るとされている仁徳天皇で、この親子は日本第2位と第1位の巨大前方後円墳に眠るとされています。この時代は謎の4世紀から5世紀の倭の五王の時代ですから、本当は綿密で真摯な古墳調査をしなければならない古墳群なのです。
特にその真相が知りたいと私が思う古墳が古市古墳群にふたつあります。
ひとつは古市古墳群の北側にある、この地域に最初に築造された「津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)」で、もう一つは応神天皇陵古墳が遠慮するかのようにわざわざ避けて、しかもあえてくっつけている「二ツ塚(ふたつづか)古墳」です。