専門技術に秀でた古代豪族に支えられた天皇とは?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #063
渡来した豪族たちは、それぞれ最新の得意文化を持ち込んでいた。そして、故郷との交流を保ち、鉄をはじめとする金属原料や、さらに進化した生活文化を日本に輸入し、大和王権に重用されたと推測される。紀氏一族ほか、水軍豪族から当時の姿を探ってみよう。
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阿蘇のピンク石で再現された家型石棺 展示:今城塚古代歴史館/撮影:柏木宏之
継体大王の権力は水軍に支えられていた
前回(古代の地名が示している「古代豪族」が得意とした”技能”とは?)に続いて特殊技能をもつ古代豪族と王権のかかわりについてもう少し考えてみましょう。
和歌山県北部の紀ノ川周辺で特に河口地域の古代豪族は、水運技術や製塩、朝鮮半島南部との交流などの重要な役割を果たしていたようです。彼らは遠く摂津国北部の高槻(たかつき)市に陵墓を築いた26代・継体(けいたい)天皇の時代にも重要な役割を担っていたと考えられます。もちろん紀ノ川周辺に母港を持ち、淀川河口域に水運基地を置いたのでしょう。
継体大王の時代は、任那(みまな)と百済(くだら)を救援するために新羅(しらぎ)征伐の大遠征を企てたり、それを阻止した筑紫(ちくし)の磐井(いわい)を征伐に出兵したり、阿蘇のピンク石で作った巨大な家型石棺を運んできたりと、有力な水軍が無ければ絶対にできない事績が豊富です。
大阪府高槻市の今城塚古墳は真の継体天皇陵だと考えて差し支えありませんが、膨大な円筒埴輪には船の線刻画が数多く描かれています。
継体大王の権力は水軍に支えられていたことが確実です。
その主力のひとつは、当時和歌山県の紀ノ川周辺に大勢力を誇っていた紀氏(きうじ)一族なのではなかったでしょうか。

船の線刻円筒埴輪(赤囲みは著者の指定) 展示:今城塚古代歴史館/撮影:柏木宏之
もちろん瀬戸内にはその仲間ともいえる水軍豪族がいくつもあったはずです。
王朝を支えた水軍勢力は、継体大王の出身地で当時の表玄関である日本海側にもいたでしょうし、九州北部の沿岸を支配したプロフェッショナルな外洋航海豪族もいたはずです。
これまで述べてきたように、稲作に長けた豪族は弥生時代から相当数の集団がいたことでしょう。
また古墳時代には大量の埴輪や日用食器などを製作する技術を持った土師氏(はじうじ)なども勢力を拡大したのではなかったでしょうか。軍事では阿倍氏や大伴氏(おおともうじ)や葛城氏(かつらぎうじ)などが軍団長を受け持ったのでしょう。
飛鳥時代以前の古墳時代には、すでにそういった特技職掌豪族が相当広く分布していたのだと考えられます。
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阿蘇のピンク石 展示:今城塚古墳歴史館/撮影:柏木宏之
葛城氏の家督を受け継ぎ百済とのパイプを持った蘇我氏
おそらく葛城氏の家督をすべて受け継いだのであろう蘇我氏は、百済の経済管理術を大和に持ち込んで財政再建に成功し、百済を中心とする外交ルートの太いパイプを活かして中央政界に登場します。
これも特殊な職掌技術豪族だといえるでしょう。
蘇我氏はさらに仏教を取り入れて大和国に最新の文化と技術を導入し、その取り仕切りに成功して財政・外交・宗教の全権を掌握して、大王家の外戚として大権力を握るのです。
このようにそれぞれの渡来豪族は、故地で得た最新の技術や知識、文化を以って大和王権を支えて国家創造に協力したのでしょう。
しかしそれにしても、最強の武力や文化、技術を誇った豪族たちが、なぜ素直に大和王権に協力し、王権を簒奪(さんだつ)しなかったのか?という疑問が生まれます。
それは「絶対に逆らえないほどのゆるぎない絶対権威や権力」を大和の大王が誇示していたということなのでしょうか。それは絶対神を祖先としているということだったのでしょうか?
それとも当時の先進文化人は天孫族の出自をよく知っていて、その権威にひれ伏したのでしょうか?
いや、古代に形成された「天皇制」そのものが王朝をあえて簒奪する必要を感じさせなかったのでしょうか?
そんな小さな疑問をきっかけにして考えてみるのも、歴史遊びとして面白いではないですか。