弥生時代の人々はどんな日常生活を送っていたのか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #059
古墳時代のその前の時代、縄文時代から文化が大きく進化した時代。それが弥生時代だ。稲作や金属器によって、暮らしが大きく変わったことで知られるが、いったいどんな日常生活を送っていたのだろうか?
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佐賀県吉野ヶ里遺跡の甕棺墓。九州方面の弥生時代を代表する遺跡 撮影:柏木宏之
弥生式日常用具と縄文式台所用具が多く出土する北九州の集落遺跡
採集狩猟(さいしゅうしゅりょう)生活が気候の寒冷化でうまくいかなくなるころ、同じく寒冷化を避けて暖かい地を求めた大陸や半島に住んでいた人々が、日本海を渡って日本列島にやって来ます。それが弥生時代の始まりです。
彼らは農耕文化を持っており、稲作や畑作技術を日本列島に持ち込みます。また、当時の先進文化だった鉄器文化を導入します。
もちろん渡来して来た弥生文化人と原住の縄文人とは民族が違いますので、ことばも価値観も宗教も違ったでしょう。
しかし、長くガラパゴス的に争いの無かった日本列島に暮らした縄文人は、弥生文化人を平和裏に受け入れました。そして彼らの持ち込んだ稲が、一粒万倍(いちりゅうまんばい)の食料となる事実を見て一緒に暮らし始めるのです。
渡来した弥生文化人集団も少人数でやって来ましたので、水田の整備や灌漑(かんがい)設備工事、そしてもちろん手のかかる稲作作業を現地の縄文人に手伝わせたことでしょう。
稲作渡来のグランドゼロ地点は北九州で、その集落遺跡からは弥生式日常用具が多く出土しますが、煮炊き調理をする台所用具は縄文式が多いという面白い結果が出ています。
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山口県土井ヶ浜出土の弥生土器。縄文土器に比べてシンプルなデザインが特徴。撮影:柏木宏之
素直に考えれば、渡来してきた弥生文化男性と現地の縄文女性が一緒に暮らしていたのだろうと思えます。また当然子供も生まれたでしょうから、両文化人が融合し、倭国の弥生人が誕生したということになります。
そうした融合と文化の広がりは非常に速い速度で日本列島を駆け上がります。人口が増えると、さらに開墾(かいこん)に適した土地を求めて集団での移住も活発だったのでしょう。
日本各地に、弥生時代の遺跡を公園化している地域があります。
静岡市の登呂(とろ)遺跡に触れられる登呂公園や大阪府にある池上曽根(いけがみそね)遺跡のサイトミュージアムである弥生文化博物館、唐子鍵(からこかぎ)遺跡公園など公園化された場所があります。
他にも全国に弥生遺跡がありますので、併設されている資料館にも是非立ち寄ってみましょう。
ちなみに、時代名の由来は、東京本郷の弥生町で初めて発見された土器が縄文式とは明らかに違う特徴と時代を示していたためです。この最初に発見された土器は弥生時代後期のもので、その後研究者たちは北九州から弥生文化が流入したことを突き止めます。
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山口県土井ヶ浜遺跡の埋葬形式(人類学ミュージアム再現展示) この地域では砂浜に墓域を造営したので、人骨が極めて良好な状態で多数発見された。遺体はすべて顔を海に向けて埋葬されている。同じ弥生時代でも吉野ヶ里とは違う埋葬風習がわかる。撮影:柏木宏之
稲作や金属器、そして弥生土器などの新文化は瞬く間に日本列島を駆け上がりますが、墓制は頑固に縄文以来の地域習慣を守ります。
北九州地方の弥生墓は甕棺(かめかん)で個々に埋葬し、近畿地方では方形の土壙墓(どこうぼ)で周囲に溝を造っている方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、東海地域には遺骨を甕(かめ)に納めてその世代全員が死亡すると全員分を大きな穴に集団で埋葬する習慣のあった弥生遺跡も発見されています。