大和王権における豪族王の力は天皇に匹敵⁉ 大王と豪族王の関係とは?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #058
皇統譜に見る大王(天皇)の成立期には、有力な豪族が相当に力を貸している。政略結婚も頻繁に行われ、大王家は有力豪族と血縁を結ぶことで勢力を蓄えていったと考えられる。第16代・仁徳(にんとく)天皇と葛城(かつらぎ)氏の関係を例に考えてみたい。
仁徳天皇が側室を入内させたことに激怒し堂々と別居した葛城氏・磐之媛の威勢
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再現された古代屋敷。(大阪歴史博物館展示建物/撮影:柏木宏之)
世界遺産「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」の中でもひと際威容を誇る大仙古墳(だいせんこふん)は仁徳天皇陵だといわれています。当時まだまだ脆弱だった大和の国の民の生活は、日々貧しかったのでしょう。
河内(かわち)の高津の宮(たかつのみや)で統治した仁徳天皇は、ある日領民の家々から一向に炊飯の煙が上がらないことに気づき、税を3年の間免除したといいます。当然、高津の宮も屋根は雨漏りがして、あちらこちらが傷んできます。しかしそれに耐えた仁徳天皇が、3年後に高津の宮から見下ろした歌があります。
「高き屋に登りてみれば煙立つ 民の竈はにぎわいにけり」
税を免除してから3年経って国の様子を眺めてみると、民の家々から炊飯の煙が勢いよく立ち上っているではないか!よかった、よかった!
という物語の歌です。このように徳の高い天皇だったというので、奈良時代に淡海三船(おうみのみふね)という学者が漢風諡号を「仁徳」としたのです。
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浪速の地を皇都(高津宮)と定められた仁徳天皇を王神として仰ぐ高津神社(大阪市)。 撮影:柏木宏之
その仁徳天皇の皇后は磐之媛(いわのひめ)といいました。
実家は現代の奈良県御所市にあったようで、父は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)という強大な軍事力を誇った大豪族です。
天皇と皇后は仲良く暮らし、後の履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)という三代の天皇を産みました。
ところが……、日本史上最大のやきもち焼きだといわれる磐之媛は、仁徳天皇が側室をこっそり入内(じゅだい)させたことに激怒して敢然と別居をしてしまい、二度と宮には帰りませんでした。
この話は古代の天皇と皇后の夫婦間の話としてほほえましくもあります。
しかし、あの大仙古墳に葬られるほどの大王を生涯許さなかった磐之媛には、どれほどの力があったのだろうと考えると、それは外戚豪族の王である父親の襲津彦の後ろ盾がいかに強大なものだったかということに気づきます。
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賀茂氏の一族である役行者に使役される神にまで身近となった一言さん。(一言主神社万葉歌碑/撮影:柏木宏之)
倭の五王時代を支えた葛城氏
仁徳天皇の時代は倭の五王として中国大陸と国交を結んでいます。
その大王を許さず、堂々と別居をする葛城氏の磐之媛の威勢は大王と対等です。
つまりこの時代は大王といえどもその後ろ盾の外戚の葛城氏と巧く付き合わないと、王権の維持が難しかったのだろうと考えられます。
葛城氏の本拠地には今も「葛城坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社」があります。
「善きことも悪しきことも一言で言い放つ」徳の高い神様です。今ではたった一言の願いだけを叶えてくれる神様として信仰されています。
この神社の創建には第21代・雄略天皇がかかわっています。
強力な大王権力を獲得したと考えられている雄略天皇と一言主の神の話、そして葛城氏と大王家の決別の話はまた後日にいたしましょう。