「倭の五王」のひとり・雄略天皇が成敗した葛城円の墓とされる“掖上かんす塚古墳”とは?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #061
古代王朝の大王でその実在が証明された雄略天皇は、大和王権確立の画期を担ったと考えられている。倭の五王の一人として確実視されている雄略天皇とは?
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掖上(わきがみ)かんす塚古墳
美しい前方後円墳で室宮山(むろみややm)古墳に次ぐ御所市第2位の規模を誇る。周濠の形がはっきりとわかる格調高い古墳だが、谷あいに隠されたようにひっそりと目立たない。(現地パネルより)撮影:柏木宏之
雄略天皇の実在を証明したワカタケル大王の象嵌文字
奈良盆地には古代王権の痕跡が多く残っています。弥生時代には紀伊地方の影響も大きくあり、現代の行政区画では想像できないほど意外に広大な地域を見なくては正確に当時を理解できないことに気づかされます。
それは日本の歴史を列島内で完結すると考えるのはまちがいで、朝鮮半島や中国大陸、東南アジアからシベリア、さらにはユーラシア大陸の西域まで大きく広げて考えなくてはならないのと同じです。
さて広大な話からピンポイントな話に戻りますが、16代仁徳天皇の皇后は巨大豪族・葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘で、天皇に対しても自己を貫き通すことのできた磐媛(いわのひめ)です。
つまりあの世界三大墳墓を建築させるほどの権勢を誇った仁徳天皇でも葛城氏の機嫌を損ねるわけにはいかなかったという力関係でしょう。その後、履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)・安康(あんこう)と続いて5世紀後半に第21代雄略(ゆうりゃく)天皇が登場します。
雄略というのは諡号(しごう/死後に送られる名)で、当時はワカタケル大王と呼ばれていたようです。
その実在が証明されたと大きな話題になったのは1978年のことでした。
それは、1968年に発掘調査された埼玉県埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳から出土した錆びだらけの鉄剣を10年後にエックス線調査をして表裏に象嵌(ぞうがん)されていた115文字の銘文が現れたことによります。
なんとそこには西暦471年に被葬者の「ヲワケの臣」がワカタケル大王の親衛隊長として仕えたという内容が記されていたのです。この鉄剣は1983年に国宝として登録されています。
つまりワカタケル大王の象嵌文字は、雄略天皇の実在を証明することになったのです。
雄略天皇に逆らって滅ぼされた葛城円
その雄略天皇が金剛山の山麓で神と出会った話があります。
ある時、雄略大王は供を連れて山麓に狩りに行きます。すると、正面から自分と同じ狩衣(かりぎぬ)を着て同じ数の供を連れた一行と遭遇します。大王と全く同じ衣装に同じ弓矢を持ち、まるで鏡に映ったかのように同じように動きます。無礼な者どもだというので弓に矢をつがえて成敗しようとすると、まったく同じように相手も弓を構えます。不審に思った大王は「お前たちは何者か!」と誰何しました。
すると「私は善きことも悪しきことも一言で言い放つ神である!」と答えたのです。
相手が神であることに驚いた大王は、「これは畏れ入りました。存ぜぬこととはいえお許しください!」といって、着ている物を全部脱いで、神の一行に捧げて許しを乞うたというのです。
今も篤く信仰されている奈良県御所(ごせ)市の葛城坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社の創建縁起として伝わっている話です。
大王が地元の神にひれ伏したというこの話は、この地域が大豪族葛城氏の根拠地ですから、雄略天皇といえども大豪族葛城氏には一目置いていたと考えてよいでしょう。
しかしながら葛城襲津彦の孫にあたる葛城円(かつらぎのつぶら=円大臣)は雄略天皇に逆らって攻められ、葛城氏本宗家は滅びます。
つまり雄略天皇は目の上の瘤(こぶ)だった葛城本宗家を失脚させることに成功して、権力を大きくしたのです。
御所市のはずれに遠慮して隠されたように造営された掖上(わきがみ)かんす塚古墳(前方後円墳)は、雄略大王に逆らって成敗された葛城氏本宗家の最後の当主である葛城円の墓ではないかと考えられています。
『日本書紀』は編年で記録されているものの書き始められたのは雄略朝からだろう、という説が大半を占めています。
それほど雄略天皇は、古代大和王権の建設にとって重要な天皇だったと考えてよいのだろうと思います。
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葛城坐一言主神社
今も参拝者が多く訪れる古社で、葛城古道と呼ばれる山沿いの道につながっている。撮影:柏木宏之