古代日本・縄文時代から受け継ぐ木造建築の技術を探る!
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #066
日本は島国だ。山が迫った国土のおかげで、恵まれた豊富な木材資源を利用してきた古代人は、どのように木の性質を利用して、建築物を建てて来たのか?古代から受け継ぐ木造技術を見てみよう。
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青森県三内丸山遺跡縄文タワー。釘を使わずにあの巨木を組み合わせてタワーを造った。撮影:柏木宏之
■「栗の木」の利用が見られる三内丸山遺跡
『魏志倭人伝』には倭国は「山島に依りて國邑を為す(さんとうによりてこくゆうをなす)」と紹介されています。つまり海岸に迫るほど山が主体の島国だと認識されていたようです。確かに国土の7割が山地の国ですから、木材資源も豊富だといえるでしょう。地球規模の環境変化で、針葉樹・広葉樹・落葉樹・常緑樹とその樹林帯には変化がありましたが、常に樹木に覆われていたのが日本列島の特徴です。
縄文時代の温暖だった時期に青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡が約1500年以上栄えます。この遺跡が現代の私たちに示してくれたのは「栗の木」の利用です。栗の木はもちろん美味しい実を秋に実らせますので、採集狩猟生活には無くてはならない木でした。しかも木の性質はしなやかで丈夫、そのうえ虫がつきにくく、幹を切ってもすぐにヒコバエが始まるほど生命力にあふれた樹種です。
三内丸山に住んだ縄文人は、集落の周りに栗の木を植えて暮らしていました。栗の木を食料生産林として増殖し、建材としても利用していたようです。この縄文遺跡「三内丸山遺跡」でも、当時の上物(うわもの=建物)が再現されています。
以前は弥生時代になって現れると考えられていた高床式建物が、すでにあったと結論付けられています。
しかも木を組み合わせた壁は、校倉造の原型のような再現がなされています。それらはすべて発掘による遺構と建物の破片の調査から慎重に出された結論です。
そしてなにより目を引くのは巨木を使った「縄文タワー」でしょう。見張り台として使われたのか、逆に海から見た時のランドマークだったのか?まったくわかりませんが、釘を使わずにあの巨木を組み合わせてタワーを造った技術に驚きます。
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三内丸山遺跡の再現上物(高床式建物)、三内丸山遺跡は今から5900年~4200年前の縄文時代の遺跡。高床式建物がすでにあったと考えられている。板壁は校倉(あぜくら)式構造の原型か? 撮影:柏木宏之
■高麗門形式の大手門には複雑な技法が編み出されている
さらに時代が下ると大工技術も驚異的に進歩します。木を継いだり組み合わせたりするのが木造建築法には必須の技術です。江戸時代には木造技術は完成の域に達して、実に複雑な技法が編み出されます。
例えば、現在の大阪城には江戸時代の建造物が数多く残っていますが、大手門に不思議な技法が使われています。この大手門は高麗門形式で、その南側の控え柱の下部が腐食のため弱って来たので1923年(大正12年)に継ぎ柱をして補強しました。
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高麗門形式で、その南側の控え柱の下部が腐食のため弱って来たため補強。撮影:柏木宏之
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柱を持ち上げて巧くずらすだけで分離する継ぎ方。撮影:柏木宏之
この継ぎ方、柱を持ち上げて巧くずらすだけで分離しますが、組んであるとびくりともしないほど頑丈なのです。戦後、ある大新聞社が全国にこの継ぎ方の謎が解ける人を大募集して大きな話題になったそうです。今は、タイミングが良ければボランティアガイドの方が、模型で説明をしてくれますよ。
ほかにもスギ材・ヒノキ材・マツ材・サクラ材などなど用途に応じて木材の長所を活かした使い方がされてきました。しかしながらそういった木材も枯渇し始めているのです。それは世界にもその例はありまして、古代メソポタミア・エジプト文明で多用されたレバノン杉は、今や天然記念物になるほど枯渇しています。
木造建築の伝統と受け継いできた優れた技術を残すためには、まず樹木を大切に育成しなければなりませんね。