「応神天皇陵」はなぜ小さな二ツ塚古墳に〝遠慮〟をして造営されているのだろうか?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #068
古市古墳(ふるいちこふん)群の中にある誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)はわが国第2位の巨大さを誇る。応神(おうじん)天皇陵として宮内庁は管理しているが、仲哀(ちゅうあい)天皇を父に、神功(じんぐう)皇后を母にもつ第15代天皇の陵墓は、なぜ小さな二ツ塚古墳に遠慮をして造営されているのだろうか?
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古市古墳群・北端にある津堂城山古墳では、出土した長持ち型石棺レプリカがある。古墳時代中期の大王級墓に使われていた。撮影/柏木宏之
■福岡県の「宇美(うみ)」の地名の由来にもなった応神天皇
墳丘の体積としては堺市の大仙(だいせん)古墳をしのぐ大きさを誇るのが、羽曳野市にある誉田御廟山古墳です。第15代応神天皇陵として宮内庁が管理しています。
応神天皇は母親の神功皇后のおなかに宿った時から大王になるべき命として「胎内天皇(たいないてんのう)」とも呼ばれている、とても重要な大王です。父親の仲哀天皇が九州征討の途中で謎の急死を遂げて、おなかの大きな神功皇后が神託に従って朝鮮半島の三韓に攻め入ってこれを従えたといいます。その時、神功皇后はすでに産み月で、大きなおなかの両脇に小石を添えて産気を抑えての出陣だったそうです。
あっという間に三韓を従えて九州に凱旋した神功皇后は上陸するとすぐに赤ちゃんを産んだということです。ですからこの海岸を「宇美」と今でも呼んでいます。
そもそも仲哀天皇の急死も謎、その時に立ち会っていた武内宿祢(たけうちのすくね/たけしうちのすくね)も謎の人物。あろうことか神功皇后も謎の多い女性です。
そういう出自の応神天皇は、九州から大和に入るのに異母兄二人を倒したり、北陸の気比(けひ)神社に詣でて神様と名を交換したりと誠に謎めいた子供時代を過ごします。
ですから学界では応神天皇は王朝交代をした重要な大王だったとする説が根強くありますし、私もこれを支持しています。
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誉田御廟山古墳と二ツ塚古墳の配。(GoogleMAPから引用、文字と囲いの指定:柏木宏之)
■古市古墳群の中心・応神天皇の陵が小さな二ツ塚古墳を避けて周濠を造営
応神天皇の跡継ぎが第16代仁徳(にんとく)天皇ですから、父親は古市古墳群、息子は百舌鳥古墳(もずこふん)群のそれぞれ最大規模の前方後円墳に眠っているとされているのです。
それほどの大王墓が、小さな前方後円墳に遠慮しているように見えます。応神天皇陵は小さな二ツ塚古墳を避けて周濠を造営しています。
古墳は本人の出身地、もしくは根拠地に造営されます。そして切り合いの関係から観て、二ツ塚古墳が先にあって、寄り添うように伝・応神天皇陵が造られています。これはどう考えてもこの古墳に埋葬されている二人にはとても濃く強い関係性を認めざるを得ないでしょう。
この巨大古墳が応神天皇陵だとするなら、二ツ塚古墳は先に亡くなった母親の古墳でしょうか?
しかし母親は神功皇后ですから、奈良市内の北部にある佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群の西の端に神功皇后陵があります。
すると誰のお墓なのでしょうか?いや、そもそも誉田御廟山古墳は応神天皇陵なのでしょうか?
わが国の考古学は非常に合理的で科学的です。つまり学問として世界最高峰の水準にあります。
しかし調査が許されない以上、研究のしようがありません。
伝世状態も良好な巨大古墳の調査研究は、残念ながら全くされていません。誠に残念なことだと思います。科学的調査が行われれば、わが国はおろか、古代の東アジア一帯の歴史学に大きく貢献できるのですがね。