新たな出土物から考察する「継体天皇」の功績
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #074
第26代継体(けいたい)天皇は北陸から招聘(しょうへい)された大王だ。淀川水系を離れず、筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)を滅ぼして、ついに大和王権最大の悲願であった九州制圧に成功した。その権威と権力をうかがわせる物証が山口県下松市で新たに発見された。継体天皇とはどんな大王だったのか?
今城塚古墳と類似した埴輪が天王森古墳から出土

今城塚古墳(大阪府高槻市)から出土した太刀形埴輪。
以前にも取り上げた第26代継体天皇について、最近、考古学調査の報告に興味深いものがありました。
山口県下松市の天王森(てんのうもり)古墳の発掘調査で、数多くの形象埴輪が出土したのですが、その中の「太刀形埴輪(たちがたはにわ)」は、まさに今城塚古墳埴輪祭祀場から出土したものと瓜二つだったのです。

山口県下松市にある天王森古墳から出土した太刀型埴輪のポスター。
天王森古墳は6世紀前半に造営された前方後円墳で、高槻市の今城塚古墳の築造時期とほぼ同じです。
継体大王の最大の仕事は、九州制圧でした。ですから新羅の手先になって大和軍の進撃を邪魔したという理由で、九州の雄である筑紫君磐井を倒すために、大軍団を組織して攻め込みます。この九州攻略に成功して、瀬戸内海西部と壱岐・対馬ルートの制海権を完全に手中にしたものと思われます。地図で見ておきましょう。

グーグルマップに著者が囲み文字を入れて加工。
地図の右手から攻める継体大王軍の大船団は瀬戸内海の重要拠点に立ち寄り、各地の水軍豪族を従えながら左手の九州に進撃します。
その途中の「大三島(おおみしま)」(愛媛県今治市大三島町宮浦)に大山祇(おおやまつみ)神社があります。継体大王はここを後詰基地にしたのではないか、と考える研究者の方にお話を伺うことができました。
「大山祇神社を後詰めの基地と考える理由はいくつかありますが、『大山祇神』を大切に祀っていた継体大王が、ここに神社を創建した可能性がまず挙げられます。また、島の名前である『大三島』は、継体天皇陵のある三島地域に通じているのではないかとも考えられます。さらに、その先にある現代の山口県の下松(くだまつ)という地名の語源が、「百済津(くだらつ)」だった可能性があり、渡来系の海人族の重要拠点として前線基地を置いたことが考えられます」
その重要拠点の首長墓こそが、天王森古墳という前方後円墳だったと考えられます。
それらの傍証(ぼうしょう)として、継体大王の真の陵墓である今城塚古墳から出土した形象埴輪と瓜二つの太刀形埴輪などが発見されたことが挙げられます。
今城塚古墳の埴輪祭祀場から出土した物と、細部まで酷似した形象埴輪が出土するということは、継体大王のために埴輪を大量に製作するトップクラスの工人を、同盟国の首長のために派遣して大王級の埴輪を焼かせたか運ばせたのだろうと想像できます。
それほど下松市の港は、大和王権にとって重要な戦略拠点だったと考えられるのです。
そして筑紫の磐井を滅ぼして九州制圧に成功した継体大王は、巨大な阿蘇のピンク石を自らの家形石棺に指定して、これを遠路運ばせたのではなかったか。その海路や道中は、驚くほど豪華盛大にして、継体大王の支配を知らしめ、その権力の強大さを重要な航路沿岸国に見せつけたのだろうと想像できます。
九州制圧を大目標に掲げた継体王朝は約20年かけて準備をし、そして成功したのでしょう。水運・水軍の総指揮を執った継体大王を、単なる王朝交代とか招聘王朝とかで片づけることのできない当時の事情が、新発見や新説でどんどん見えてくるようです。

阿蘇ピンク石の石棺片 (高槻市今城塚古墳古代歴史館展示)。