「弥生時代」と「古墳時代」の境目とは?
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #075
近年、墳型やその外縁の研究が進み、弥生時代と古墳時代の境界線が揺れつつある。これはひとつの成果で大変喜ばしいことだが、墳型の変化はそのまま思想や政治状況の変化を示していることを考慮すると、実に重大な進展ではないだろうか?
墳墓の形状から考察する時代の「境界線」
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三世紀半ばの築造という説のある奈良県大市墓(箸墓古墳・著者撮影)。
研究の進展によって、古代の時代区分が見直される時期を迎えています。これは大変結構なことです。
以前は、弥生時代の始まりは紀元前3世紀で、終わりは紀元3世紀末もしくは4世紀と教えられていました。しかし、新たな発見や知見を勘案すると、現代では弥生時代の始まりは紀元前5世紀まで遡っています。
さらに「稲作文化」を最大の画期条件とするなら、土器から発見された籾の圧迫痕やその存在を示すプラントオパールの検出、炭素14年代測定法などから、絶対年代を紀元前10世紀とする説も出ています。
ただ一口に「稲」といっても、南洋系の陸稲とジャポニカ米の水稲に分かれます。今のところは「縄文時代晩期に陸稲はあったと思われるが、計画的な水稲栽培ではなかった?」という所に落ち着いているようです。
弥生時代から古墳時代への移行は、墳墓の形が重要な画期条件になっています。それは弥生墓とされる「墳丘墓」と、新時代を感じさせる「前方後円墳」築造の境目が画期となります。研究者は前方後円墳の編年を探り、絶対年代を突き止めようと努力します。

高槻市古代歴史館展示箸墓古墳図。最も古いタイプの前方後円墳で、前方部がバチ型に開く特徴を持つ(著者撮影)。
ただ、宮内庁管理の「天皇陵・皇后陵・陵墓参考地」は調査が禁止されています。つまり、考古学問上もっとも資料として必要な、大型前方後円墳の調査ができていないのです。しかし、以前にも紹介したように、考古学者は陵墓域外の外縁を調査して円筒埴輪列を発見します。
この埴輪の編年が完成して、ほぼすべての王墓級前方後円墳の造営順が判明しました。もちろん墳丘そのものや石室石棺などの学術調査が行われれば、もっと詳細な時代区分と重大な発見があるに違いありませんが……。
今のところ、最古級の前方後円墳は奈良県桜井市にある「大市墓(箸墓)」だと考えられています。その造営時期として最も早い説は、3世紀中葉としています。つまり西暦250年前後だとしているわけです。ということは、古墳時代の始まりは西暦250年ごろで、それ以前が弥生時代だということになります。

最も古いタイプの前方後円墳で、前方部がバチ型に開く特徴を持つ /柏木撮影
ほぼその時代に北摂山系(ほくせつさんけい)の中腹、大阪府高槻市御所の町に古墳が築かれました。おそらく現在の大阪地域でもっとも古い水田遺跡と環濠(かんごう)集落だと考えられる「安満(あま)遺跡」の首長墓ではないでしょうか。
以前ならこの墳墓は弥生墓とされて問題はなかったと思います。しかもこの古墳は前方後円墳ではなく長方形墳で、石槨(せっかく)を持たない直葬の土壙墓(どこうぼ)です。内部は割竹型木簡が埋葬されていて真っ赤に朱が塗られた立派な墓です。
そしてここから、とんでもないものが出土したのです。それは種類の違う5枚の青銅鏡でした。(次回につづく)