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「平城京」への遷都には様々な政治的な意図が隠されていた

今月の歴史人 Part.2


古代日本には多くの都が存在したが、平安京とならび、もっともその名を知られいるのが平城京である。この都が創造されるにいたる裏には様々な事情があったという。


 

■なぜこの地が選ばれたのか?

 

平城宮跡に復元された第一次大極殿。

 

 元明(げんめい)天皇が藤原京から平城京に遷都したのは和銅(わどう)3年(710)であるが、そもそもなぜこの地が選ばれたのだろうか。

 

 奈良の地名は、平らにすることを表す「ならす」の語をもとにつくられた。そこは「ならされた」ような広い平地であった。

 

 中国にならった広大な都を置ける土地は、奈良以外になかった。しかも平城遷都直前の8世紀はじめの時点で、そこに目立った有力豪族はいなかった。そのため遷都を主導した藤原不比等(ふじわらのふひと)らは、京内に蘇我(そが)系の豪族の邸宅のある藤原京から奈良に遷った。

 

 ではどのような都市整備がなされたのだろうか。

 

 平城京は唐(とう)の長安(ちょうあん)を模倣して造られた。唐の都の長安は四角形だが、平城京には東側の張り出しがある。のちに外京(げきょう)と呼ばれる張り出しは、新たな都から蘇我氏の影響力を排するために設けられたという説がある。

 

 推古4年(596)に蘇我馬子(そがのうまこ)の発願で建てられた飛鳥の法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)は、100年余り経った後にも仏教の中心地として重んじられていた。

 

 法興寺は藤原京のすぐ南方にあったが、藤原不比等は平城京造営の時に飛鳥の主要な寺院に平城京に移転せよと命じた。そして法興寺を移す外京を設け、名を元興寺(がんごうじ)と改めて影響力を封じたというのだ。

 

 では、この外京を含め、平城京は計画から着工、完成までは、どのくらいの期間がかかったのであろうか。

 

 公式の記録には、平城遷都の動きは慶雲4年(707)に始まったとある。この年に文武(もんむ)天皇が遷都について審議せよという詔(みことのり)(天皇の命令書)を発したというのだ。

 

 これは平城遷都(710)の3年前の出来事であり、藤原京遷都のわずか13年後のことであった。

 

 唐の長安の都に関する十分な情報をもたずに、藤原京の建設が始められたらしい。唐では、都の北方の中心に皇帝が生活し執務する都宮を置いている。ところが藤原京の中央に、天皇が生活する藤原宮がつくられていた。このことがさまざまな支障をもたらした。しかも藤原京の京内に、天香具山(あめのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳梨山(みみなしやま)という容易に入れない神の山があった。

 

 平城遷都の少し前にあたる大宝元年(701)に、粟田真人(あわたのまひと)が率いた遣唐使が中国を訪れていた。32年ぶりの遣唐使であった。

 

 粟田真人は、『大宝律令(たいほうりつりょう)』の撰定にも関与した中国通の知識人であった。かれは唐で長安の都と藤原京が大きく異なることに気付いた。藤原京は、『周礼(しゅらい)』という中国の古い文献を参考にして設計されていたのだ。

 

 唐の時代には、中国に従う周辺の国々は長安にならって設計された、長安より小規模な都を営まねばならなかった。

 

 日本に近い新羅(しらぎ)は、すでに中国風の都を建設していた。それゆえ粟田真人が中国の役人の指示をうけて、新たな都のおおまかな設計図をまとめて持ち帰ったのだ。

 

 こういったことにより、唐のものにならった都づくりが始められたのだ。和銅元年に都の建設にあたる造宮卿(ぞうぐうきょう)が任命され、奈良の地に遷都せよという詔が発せられた。

 

 多くの者を動員して都の建設工事が始まったが、造営には気の遠くなるような時間がかかった。

 

 天皇が生活する内裏(だいり)のそばの大極殿(だいごくでん)は、即位式や外国の使節の謁見(えっけん)といった多くの役人が集まる重要な儀式の場であった。ところがその建物は平城遷都の5年後にようやく完成した。奈良時代末になっても、京内には建物のない農地が残っていた。

監修・文/武光誠

(『歴史人』2023年4月号「古代日本の都と遷都の謎」より)

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